旧徳山市内の古い地名「久米ヶ瀬戸」は現在の五月町にあたります。

徳山藩と萩藩の境界でひなびた場所でした。

久米地域に隣接する狭まった場所なので久米ヶ瀬戸なのでしょうか。

五月町という地名になったのは昔、ここで起きた早乙女の死とそれを祀る早乙女松にちなんでいると思われます。

現在は看板が残っています。

この地方にはかつて「早苗打ち」という風習がありました。
これは早乙女が田植えをしているときに通りかかった相手に苗をぶつけ、ぶつけられた人は祝儀としていくばくかのお金を払うというものでした。
あるとき山陽道を九州から上ってきた飛脚が田植えの最中にこの久米ヶ瀬戸を通りかかり、早乙女は飛脚に苗をぶつけました。
そして祝儀を求めたところ、なんと飛脚は「無礼者」と娘を切り捨てて逃げてしまいました。
土地の人々は気の毒な早乙女の死を嘆き、小さな塚を作り松を植えて供養しました。
みだりにこの松に触ると祟られるなどと言われていましたが、時代の流れで切られ、これを悼む方が記念の石碑を立てましたが、こちらも遠石八幡宮参道脇の千日寺に移されました。
という訳で千日寺に行ってみます。
遠石八幡宮の鳥居をくぐり
二つ目の鳥居の右手側
千日寺への道があり
案内板もありますが
現在は更地です。
情報によると早乙女の碑は再度移設されて青山町の無量寺にあるということなので移動です。
無量寺さんに伺うと分かりにくい場所ですのでとわざわざ案内してくださいました。
境内を突っ切って奥の墓地の
更に突き当り
一般のお墓の後ろ側に千日寺跡に残っていた大量の古い石仏や石碑が置かれています。
興味深そうな古い石祠もあって歴史好きにはたまらないですね。
その中に確かに
ありました。
早乙女の碑です。
無量寺さんご親切にありがとうございました。

早乙女の死は風習の違いによる悲しい事件として語り伝えられていますが、ちょっと待ってください。
少し引っかかります。
まず「早苗打ち」です。 
通りかかった相手に苗をぶつけお金を払わせる、これ何?となります。
稲の苗は百姓にとって貴重なものですよね。
遊びで投げるようなものではありません。
ぶつけられたらお金を払うのも変です。

これに関してはヒントとなる情報が「徳山の思い出」という画文集にありました。
日本で女性が西洋式の下着を身に着けるようになったのは比較的最近、昭和になっての事です。
東北地方ではもんぺに似た野良着が有ったそうですが、全国的な普及は太平洋戦争中だと言われています。
早乙女が田植えをしていた時代、周防地方の女性の下半身の着衣は腰巻だけでした。
つまり、布を腰に巻き付けてあるだけ、でした。
早乙女たちが着物の裾をからげて田に入った場合、下半身が水を張った田んぼに丸写しになっていたのです。

「徳山の思い出」の中には明治生まれの前田麦二画伯による当時の田植えの赤裸々な絵と、田植えにまつわる地元の俗謡が記されています。
その歌は「た、た、田の中で(女性器)が水鏡。ドジョウがたまげて砂かえす」という歌詞でした。

大きな田んぼに沢山の早乙女を入れて一気に田植えをする際は男女分業制にしていたようですが、これは風紀の乱れを避ける意味もあったのかもしれません。
田植え前の力の必要な地ならし、代搔きは男衆の仕事。
稲に命を与える一種の神事でもある田植えは女衆の仕事。
男たちは苗を田の近くまで運びますが、女たちの側まで近寄って苗を補充する手伝いは子供たちの仕事でした。

※以下、個人の推測です※
こういう田植えの事情を考えると、早乙女に近寄ったら苗をぶつけられ祝儀を払わされる「早苗打ち」というのは名目こそ「ご祝儀」ですがある種の罰金だったと思われます。
苗はコンビニなどで強盗に投げるカラーボール代わりでしょうか。
ただしボールと違い飛距離も無いでしょうし、コントロールも難しそうです。
懸命に走る飛脚には、相当の投球力ならぬ投苗力が無ければ当たらないでしょう。
一方、立ち止まって水鏡に見呆けている残念な人だと簡単に当たったことでしょう。
仕事を忘れて田植えを見ていた飛脚がとがめられ、逆切れして早乙女を殺した、こんな事件だった可能性があります。
これなら確かに早乙女も祟りますね!
※以上、個人の推測です※

人殺しをした飛脚は逃げ切ったのでしょうか。
是非ともどこかで祟られていてほしいものです。
なお、当時の旅人は庶民でも道中差しと呼ばれる護身用の刀を携えていたそうです。
飛脚も同様で、現金など貴重品を運ぶ飛脚の場合、より長い脇差を帯刀していたと言われています。
長い打刀と脇差しの二本の日本刀を帯刀している「二本差し」が武士ですね。
重そうですね。