天気の良い日曜日に花見がてら散歩に出かけました。
あまり遠出をするのが好きではないのでほとんど周南地方(周防南部の周南市・下松市・光市)限定で歩いているのですが、地図を見るとまだまだ歩けていない場所もあります。
今日は周南市の大島神社付近です。
海がキラキラしています。
周防灘に張り出した半島なのに大島とは?
なのですが、ここは徐々に陸地と繋がって島だったものが半島になったので地名は大島のままです。
県道170号線を走り大島本浦の外れにやって来ました。
くるりと湾を描いている浦の中を船が白浪をたてています。
まずは大島神社の一ノ鳥居です。
大正十五年(1926年)の石鳥居です。
この神社はもともとあった火の神様三柱を祀る竈神社に麓の県道沿いにある富士神社を合祀して昭和二年(1927年)に大島神社として改称されたそうです。
それで祭神は四柱、火産霊神、奥津彦神、奥津姫神くわえて木花咲耶姫神となっています。
よいしょよいしょと登ると二ノ鳥居です。
安永四年(1774年)
両の狛犬さんたちは昭和六十一年(1986年)
それにしても桜が見事です。
二ノ鳥居を過ぎてもまだ階段ですがやっと本殿が見えて来ました。
ようやく大島神社です。
この辺りには役行者伝説が残っているようで、本殿に向かって右側には役行者にちなんだ祠がありました。
榊で一部隠れていますが祠手前の丸い石は行者の道案内をした道祖神のしるしなのだそうです。
説明看板の文字がかすれています。
本殿に向かって左側の山手は新旧のお墓やお地蔵様があり、その上に桜が舞い落りてなんとも言えないのどかな風景でした。
古いお墓は石の家型タイプです。
最初はあまりの数なので八十八ヵ所巡りの祠かと思ったのですが個人名が記されていたのでどうやらお墓のようです。
この観音山は全体に桜が植えられていて、なんてきれいなんだろうと上を見ながら写真を撮っていたため
この写真を撮った位置のすぐ下にある六地蔵を撮影し忘れてしまいました。
すみませんすみません。
この大島神社の裾野の六地蔵辺りが、毛利輝元の側室二の丸殿の元夫である杉元宣の終焉の地と言い伝えられている場所です。
輝元がいずれ妻にしようと思っていた美少女が広島にいましたが、彼女の父親は娘を野上(徳山の古い地名)の杉元宣に嫁がせてしまいます。
失意の毛利輝元の家臣たちは娘の乳母を抱き込み、さらわせてしまいました。
小早川隆景の配下として筑前にいた杉元宣はそれを知り大阪の豊臣秀吉に訴え出ようとしますが、隆景に命じられて追跡していた村上景親に大島の船隠で殺されたと言われています。
天候が悪かったのでしょうか。
暴風の時も船が隠れられる、この大島の本浦に停泊し上陸していたところを襲われたようです。
天正十七年三月六日。
ユリウス暦だと1589年4月10日くらいでしょうか?
ちょうど今ごろですね。
徳山藩では怪異が起きると杉元宣の恨みによるものではないかと供養をしたそうですが、そういう言い伝えも消えつつあります。
花より他に知る人もなし。
穏やかで波のない海に面した、春の神社でした。