【自分史①】午前2時2分 4人から5人へ | fufu official blog

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日野原希美と藤本ゲンのfufu( ふふ )のブログです。
『 夫婦 』 であったり
『 ふふっ 』 と笑う笑い声だったり
『 フーフー 』 と熱いものを冷ます行為だったり
母が子に与える無償の愛や、大自然が私たちに与える無償の愛のような
音楽を奏でています。

2/1(金)

わたしの父は北九州で生まれ育ち
わたしの母は福岡市で生まれ育った。

昭和15年と16年の生まれだから
終戦間近とはいえ2人が幼い頃はまだ戦争中で
父から疎開したという話は聞いたことはないけど
母は母のお父さんが戦争に行っていた数年間か
戦争後の仕事関連で家を空けていた数年間、
母方の実家の田舎に預けられたことがあって
「田舎のおじいちゃんによくいじめられたわ。」
と話していた。

母のおじいちゃんが
意地悪な気持ちでいじめてたのか
本当のところはわからないのだけど
少なからず幼い母にはそう映っていたし、
そしてその話は詳細に何度もしてたから
相当母の心の傷になっていたのは確か。

生活にも自分にも余裕がない中で
弱いものにあたることで
自分の強さや存在意義を確認してたかったのかな。

ちょっと離れた目で眺めてみたら
そのおじいちゃんのことも可哀想になってしまう。
お母さんももちろん可哀想。
みんなの過去の一部分をよしよししてあげよう。


わたしの父と母はとある飲み屋さんで出会うことになる。
ちょっと時がガチャガチャするけど
わたしが20代前半の頃、
「スナックでアルバイトをしている。」
ということをずっと親に言えずにモヤモヤしていて
思い切って母に電話でそのことを告白したことがあった。
ドキドキしながら伝えたら、

「あらそう。
実はね、、。
お母さんも昔、そういうお店で働いたことがあるのよ。
お母さんとお父さんはその飲み屋さんで出会ったのよ。」

と逆ドッキリのような告白をされて
わたしの告白がかすんでしまったことがあった。

箱入り娘的に育った母が
お友達に誘われてある冬の何週間かだけ 
飲み屋さんで生まれて初めてのアルバイトをしたそうな。
そこに父が友達と来ていたそうな。

「おばあちゃんには絶対言っちゃダメよ。」

と、当時おそらく50歳は過ぎていたであろう母が
未来永劫おばあちゃんに秘密にしようとしている事に、

人間って奥深いな。
母って意外と奥深いんだなと
ひとつ大人になった気がした。
そしてわたしって結構ピュアなんだということも知った。

それはさておき…。

そうやって出会った父と母が結婚して
北九州の父の実家に住むことになる。
当時父の実家では中国人である父の父が
中華料理屋さんを営んでいて
それはそれは評判のお店。
家族経営でやっていたらしい。

母は
「朝から晩まで女中のように働いたわ。」
と、これまたその話を何度も何度もしていた。

お店で働き、家で働き。
それまで料理の一つもしたことのなかったお嬢さんが

「何でも教えて下さい。」

の姿勢で頑張ったと言ってた。
何度か実家に帰りたい出来事があったらしいけど
「辛かったらいつでも戻って来なさい。」
と言っていた母の父がある日易をたてたらしく
「お前は別れないほうがいい。」
と言われたと言ってた。

母の父は人生相談で食べていた人で
よく当たると評判で遠くからもお客様がいらしていた。
そして頑固でお客様に厳しく、
よくお客さんを叱ってたとも聞いたけど
わたしは優しいおじいちゃんしか見たことがない。

それはさておき…。

母が、嫁いだ先で女中のように働いて大変だった数年。
その間に長男が生まれ、その2年後に次男が生まれ。

ずっと後になって
「昌子さんがいた頃が1番よかった。」
と父の父からか父の母からか、父の妹さんからか、
言われてとても嬉しかったとも言っていた。

父の父と父の母は24歳の年の差があったらしい。
すなわち、
わたしの父方のおじいちゃんとおばあちゃんは24歳差婚。
実際は籍を入れてなかったから
事実婚というやつらしい。
なので父方はおじいちゃんの中国の名前ではなく
おばあちゃんの旧姓である「日野原」となっている。

ある年、中華料理屋さんの経営を
いろんな流れの中で父が継ぐことになって
あまり詳しい話は知らないけど
結局、そのお店を父が潰してしまう形になったらしい。

色々あったんじゃないかなと思う。
父方の親戚は、みんな優しいけど、
優し過ぎるのか、
ある程度豊かな中で甘やかされ過ぎたのか、
どこか何かに怯えてる感じがあったりして
それが時に攻撃的な形で表に出ることがある。
人を信頼することが難しいのかな。
兄弟間にもものすごく距離がある感じで、
だからたぶん父がお店を潰す形になった時は
たぶん、、。
たくさん責められたんじゃないかなと思う。

そのことがきっかけで父は新たな仕事を探すことになる。
幼稚園の男の子2人と母。
家族4人、食べていかなきゃいけない。
食べさせなきゃいけない。

父はご縁あって生命保険の会社に入ることになる。
入ってすぐ(だと思うけど)、
沖縄の新しい支部の支部長に自ら立候補して
沖縄に引っ越し、暮らし始めた。

昭和47年。
当時、沖縄はアメリカから返還されたばかりで
道路(右車線走行)やバス(右側乗降)などなど
アメリカ式から日本式に移り変わるのに
ものすごく大変だったと聞いている。

ってか沖縄、さほど遠くない昔、アメリカだったんだ…
とびっくりと不思議が入り混じるけど
当時のことは想像するだけで大変だったんだろうなと
…想像するしかできないけど…。

その慌ただしさの真っ只中を
母は妊婦として過ごすことになる。
まだ幼稚園の男の子2人を抱える妊婦。
沖縄の夏をよくぞ乗り切って下さいました。

上が男の子2人だから母は
(3人目は女の子がいいな)
と密かに思っていたらしいけど
お腹は突き出てボンボコ蹴ってくる。
周りの人たちにも
「あぁ、このお腹の出方は男の子ね。」
「その蹴り方は男の子ね。元気な男の子。」
と言われ続け、自分もそうだと思っていたらしい。

(男の子3人の母)
と覚悟を決め、当時唯一、
冷暖房が完備されていたらしいアメリカ病院で出産。
(病院があった場所は今はもう那覇空港)

アメリカ病院なので…。
12/25と1/1生まれの場合は出産費用が、、かな、
無料になったらしいけど
見事にその日たちをすり抜けて。
沖縄がアメリカから返還された翌年。

昭和48年12月27日(木)午前2時2分。
「わたし」がこの世に生まれた。

「元気な女の子ですよ。」
と言われた時、
「ものすごく嬉しくってねぇ。」
と母は何度も言っていた。

こうして日野原家は
4人家族から5人家族になったそうな。


…つづく。



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