先日、ショッピングモールに立ち寄ったら、店先にもうランドセルが並んでいました。
まだ夏も盛り、春はまだまだ先だというのに、ずいぶんと気の早いものだな。
そんなことを思いながら見ていると実に色とりどりで種類も多く、最近のランドセルというのはずいぶんおしゃれになったものだなと気付くのです。
私なんかの時分は、ランドセルと言ったら男の子は黒、女の子は赤と決まっていて、あとはメーカーによる違いなんかあってないようなもんで、迷っていると母親に「あんた、これにするよ」なんて言われて結局、親が決めていたような気がします。
あとで何が決め手だったのかを聞いたらそのランドセルが一番安かった、というだけのことでした。
真新しい制服とピカピカのランドセルを身に着けただけで胸がワクワクして、いつしか不安も消え、学校に通うのが楽しみになったのを覚えています。
そこで前回、「隠元禅師遺誡その1 ~まず何をするべきか~ 」の続きです。
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「腰包頂笠」
(ようぼうちょうりつ)
腰に包を携えて、頭に笠を頂いて
「真空華光大師(隠元禅師)遺誡」より
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腰に包みを持ち、頭に傘を被る。つまり旅装束を指しています。
昔、修行僧は自分の求める仏の道を説いてくれる師となる方を探して、全国各地の寺院を巡り歩きました。
隠元禅師がおっしゃるには
志を立てたならまず旅に出よ。
シンプル言えばそういうことになります。
するとまず連想するのは「かわいい子には旅をさせよ」になるかもしれませんが
「甘やかさず、子供のうちから世の中の現実をきちんと見せた方がよい」という意味とは少し違います。
隠元禅師のおっしゃることは、まず志である目標、目的がはっきりとしてからの旅であり、ただ闇雲に経験を積ませることではありません。
自分の目標のためには迷いを捨て、まず一歩踏み出さなければいけないのです。
あまり褒められた話ではないのですが、私のことを少しお話させていただきますと。
私は寺の子として生まれましたので、小さいころから自分は大きくなったらお坊さんになるんだなぁと思っておりました。
実際、家である寺を継ごうという気持ちは二十歳ころになっても健在だったのですが、
そのためにはまず僧侶になるために京都の本山で修行をしなければいけないわけです。
私はどうもこの「修行」というものに、いまいち踏み切れないでおりました。
というのも、まずは頭を丸めなければいけない。
・・・そのころは髪も長く、オシャレに茶髪にしていました。
修行道場は朝がとても早い。
・・・私は朝がとても苦手です。
毎日坐禅の時間がたっぷりある。
・・・私は坐禅がものすごく、嫌いでした。
それに加えて近所の和尚さん方からは、
「わしが修行していた時には恐ろしく厳しい先輩修行僧がいて、×××なことや、△△△なことがあったなあ」
なんて話を聞くものだから、いよいよ腰が引けてしまったわけです。
しかし、いつかは寺を継ぐわけだから
修行は若いうちにしておいた方がいいということもあり、
平成15年、22歳の時に私は修行道場へ行くことになりました。
頭は長かった髪にバリカンをあて、さらにカミソリで剃り上げました。
見様見真似で衣や袈裟の着け方を覚え、
草鞋や脚絆を着け、頭には網代傘。
まさに腰包頂笠となりました。
すると不思議なことに、それまで修行に行くことにどこか乗り気でなかったのが
少しずつではありましたが、実感として湧いてきたのを覚えています。
もちろん、この時はカッコばかりが修行僧でしたので、馬子にも衣装、コスプレもいいところでした。
それでも、「いつか修行に行くんだなあ」という気持ちから「これから修行に行くぞ」という気持ちにさせるには十分でした。
江戸時代、米沢藩主上杉鷹山(ようざん)は
なせばなる なさねばならぬ 何事も なさぬは人の なさぬなりけり
と言いました。
この「なす」は何も大それたことをなすに限らないと思います。
修行僧の装束を身に着ける。
野球に興味を持って、初めてバットとグローブを手にしてみる。
山に登ろうと、何日も前からそのための準備を重ねる。
試験勉強のために新しく参考書を買ったり、部屋に「絶対合格」と書いて張ってみたりする。
最初はその一つ一つがほんの些細なことに過ぎないのですが、それが積もって徐々に実感となり、実現へと近づいて行く。
「宝くじも、買わなきゃ当たらない」なんてCMでも言われていますが、あながち間違いではないでしょう。
何かを成し遂げようと思ったら、まずは今いるところから一歩でも半歩でも動いてみよう。
自分の目的を成すためには、何事もまず踏み出さねばならないということです。
まずは、衣を着てみるように見た目から変えてみるでもいいでしょう。
不思議なことに、坐禅がすごく嫌いだった私も、今では不動寺で坐禅会をしています。
これもまたお寺を継いでいく小さな礎となればよし、
まして皆様の何かのきっかけになるなんてことがあれば、こんなにうれしいことはないのです。
