お盆の時期ですね。
今回はこのお盆のことについて少しお話したいと思います。
いつだったか、お寺にこんな電話がありました。
「和尚さん、私のうちでは裏じゃなくて表のお盆をしたいんです。『表盆』で供養していただけませんか。」
一瞬おっしゃっていることがわからなかったのですが、すぐに理解できました。
お盆のことを正式には「うらぼん」と言い、「盂蘭盆」と書きます。
電話の方はこれを裏表の裏と勘違いをされたんでしょう。
「裏なんて言わず、表立ってきちんと供養したらいいじゃないか。裏というならきっと正式な表があるはず。」きっとこんな風に思われたでしょうか。
ご先祖をちゃんと供養したいという思いが生んだ、なんだかあったかい気持ちにさせる勘違いでした。
ではそもそもお盆というのは何でしょうか。
「盂蘭盆」は古いインドの言葉、サンスクリット語の「ウランバーナ」が転じて生まれた言葉です。
直訳すると「逆さ吊りにされたような苦しみ」という意味になるそうです。
少し物騒な気もする意味ですが、お盆の成り立ちに深く関係しています。
盂蘭盆経というお経の中にあるお話です。
今から2500年前のインド、お釈迦様のお弟子に目連(モクレン)という者がおりました。
目連は神通力、いわゆる超能力でもって過去や未来、現世、来世、さまざまなものを見通す力を持っていました。
ある時、目連は思いました。亡くなった自分の母親は今どこでどうしているだろう。自分のこの力でもう一度母に会えないだろうか。と
目連はさっそく神通力で死後の世界を探し始めました。
優しかった母はきっと極楽にいるだろうと、まずは極楽から探し始めました。
ところがまったく姿が見当たりません。
そうしてどんどん探していくうちに、とうとう餓鬼道まで来てしまいました。
まさか、優しかった母が餓鬼道に堕ちているいるなど考えもしませんでしたが、見るとそこには変わり果てた姿の母がおりました。
体は痩せこけ、髪は乱れ、飢えに苦しむ母を見て、いたたまれなくなった目連は母に水と食べ物を差し出し与えようとしました。
ところが母親の口からは息をするたびに炎が絶えず吐き出されているため、水はあっという間に蒸発し、食べ物も真っ黒な炭になって与えることができませんでした。
苦しむ母親を目の前にしながら、どうすることもできない目連。まさに逆さ吊りにされたようなの苦しみだったことでしょう。
母親を救うすべはないだろうか。
途方に暮れた目連はお釈迦さまに救いを求めました。
お釈迦様は言いました。
「目連よ、あなたの母親は確かにあなたを大事に育てられました。
しかし、あなたを可愛がることに一心で、他の者には同じように慈悲の心をもって接することをしませんでした。
生前の偏った行いが今、母親を餓鬼道におとしめているのです。
7月15日には修行が一区切りします。その日にあなたは施しをするのです。
他の修行僧はもちろん、普段お世話になっている村人たち、さらには動物たちに至るまでありとあらゆる命に施しをしなさい。
そうすれば、その一端が母親のもとにも届き、その供物であれば母親は口にすることができるでしょう。」
目連はお釈迦様の言うとおりにしました。
そしてもう一度母親に会いに行くと、母親は涙を流しながら供物で飢えをしのいでいました。感謝の心を取り戻した母親は、やがて餓鬼道から救われたのでした。
ふと周りを見渡せば、母親と同じように他の餓鬼たちも施しを受けて救われていくのが見えました。
餓鬼とは決して満たされることがない苦しみです。食欲だけでなく、心もまた満たされることがないのです。
私たちはどうでしょうか。
欲しいものが手に入らなかったり、他人が自分の言うことをきいてくれなかったり。
物事が自分の思い通りにいかないと、イライラしたりふてくされたりすることがあります。
自分勝手で、他を思いやることのない偏った心は人を餓鬼に変えてしまいます。
餓鬼は私たちの心の中にもいます。満たされない心の苦しみは私たちの心そのものが作りだしているのです。
私たちは一人で生きられるものではありません。
多くの人とのかかわりの中で、多くの命の恩恵を受けて生かされているのです。
お盆は自分が多くの存在のおかげで生かされていることに感謝をする行事でもあると思います。
ご先祖様はもちろん、他の多くの精霊に対しても感謝を忘れず供養していただきたいと思うのです。
他への感謝の心が、きっと人間らしい豊かな心を育むことでしょう。
※表記の7月15日は旧暦です。新暦では8月10日ごろになるようです。浜松ではお盆の時期が地域によって7月と8月に分かれます。全国的には関東は7月、関西は8月となっているようですが、おそらくは地域的な理由や昔からの習慣の違いで分かれていると思われます。ちなみに不動寺は7月です。
