6月12日のことです。



6月10日に関東甲信地方梅雨入り宣言がありましたが、2日後のこの日は晴れとの予報だったので。

こちらに凸💨


こちら観泉寺は青梅街道荻窪警察署前の交差点を北に向かい、井荻原っぱ公園荻窪病院、中央大学付属杉並高校を通過した先にあります。

以前から、ここにお寺があり、通りに面した築地塀(ついじべい)の長さから『広い境内のお寺だな』と思う程度の認識でした。

そして、半月くらい前にYouTubeのオススメに出てきたのを見たら、あの有名な戦国武将今川義元の末裔が深く関わっているということで俄然興味が湧いてきて凸ることに決めた次第です。


観泉寺の由緒

1597年(慶長2年)に、中野にある成願寺の住職である鉄叟雄鷟(てつそうゆうさく)大和尚により下井草付近に『観音寺』として建立された。

その後、1645年(正保2年)に今川氏第13代当主の今川直房が今川家の菩提寺として現在地に移転させて寺号を『観泉寺』に改め現在に至る。

 

とまぁ由緒書きは超簡潔に短くしましたが、全てを網羅すると物凄い長さになるので割愛して、最後に今川家に関することを少しだけ触れます。

家からは徒歩で行ったのですが、法務局杉並出張所の前を進むと↑の荻窪病院前の交差点が。

写真の斜め左前方の芝生が僅かに見えているところが井荻原っぱ公園で、写真の白い自動車が信号待ちをしている通りを左に行けば青梅街道です。

ということで、この交差点を右に曲がって北の上井草駅方向に進みます。

すると中央大学附属杉並高校を右に見た通りの先に、オレンジラインの本線に対して斜め右に道が分かれます。

この一方通行の道の突き当たりが観泉寺の正面入り口になります。その分かれ道のところに。

寺号碑があり寺号の上には寶珠山と山号も刻まれています。

ということで観泉寺の正面に向かう分かれ道ではなく、バス通りの方から築地塀に沿って向かうことにします。

少し進んだ、ここからが本格的に白い3本線の定規筋のある築地塀に変わります。

京都遠征の記事で何度も触れましたが、築地塀の定規筋は3本・4本・5本と入っていて、これは寺格または社格を表しています。

定規筋の本数が多いものが格が上になりますが、これは封建社会の名残りで、しっかりと身分や格を表示したものです。

現在では、わざわざ自分の寺(神社)は格下ですと喧伝するというのも馴染まないので築地塀の定規筋は塗り潰したり、改築の際に最初から定規筋は入れないというのが普通になっていて、京都の寺社では5本線以外のものはほぼ見られなくなっています。

築地塀の丸瓦に刻まれている紋は、ほとんどがスタンダードな巴紋でしたが、その中に五七の桐紋が。

これは曹洞宗の寺紋からのものでしょうね。

ちなみに僕の父方の菩提寺が曹洞宗で、かつては曹洞宗にまつわる本を読み漁ったりした時もありました。『自分は無神仏論者だぁ〜』って言う前の話しです😅

曹洞宗は大本山がふたつあって、ひとつは開祖である道元禅師によって開かれた福井県の永平寺で、こちらが広く知られていますよね。

そして、もうひとつが瑩山禅師(けいざんぜんじ)によって能登(石川県)に開かれた總持寺で、總持寺はその後に発展して後醍醐天皇により官寺として認められます。

ということで永平寺の寺紋が『久我龍胆(こがりんどう)』です。

対して總持寺の寺紋が『五七の桐』です。

ということで五七の桐紋は總持寺から来ているのでしょうね。

山門

ということで、いよいよ山門へ。

山門手前の左側には東京都の旧跡に指定されている今川家累代墓の石柱。

右側には禁葷酒(きんくんしゅ)の石柱が。

仏教では酒と香りの強い野菜(ネギやニンニク、ニラやタマネギなど)を修行者が修行に集中して精進する妨げになると忌避されています。

そして、山門に青もみじが上から覆い被さっていますが、実はここ観泉寺は紅葉の隠れた名所でもあります。

資金をプールして来年の桜の季節の遠征の為に、今年の秋の京都遠征は早々にパスすると決めていますが、秋の紅葉シーズンには、こちらに来ようかなと思います。

大田黒公園の紅葉は見事なのですが、あまりにも人が多いので😅

大田黒公園の夜の紅葉ライトアップは夕方の開門前には200人以上は楽に並びます😅

ということで山門

山門を抜けた向こうには本堂が見えています。

山門の扁額には山号の寶珠山と書かれています。

その横に、縦書きで永平寺七十三世貫首大光園心禅師が93歳の時に揮毫(きごう)した旨が書かれています。

山門を潜ると紫陽花が咲いていました♪

鐘楼

本堂に向かって右側に鐘楼が。

こちらも青もみじに覆われていて秋が楽しみです✨

この鐘楼は人間国宝である香取正彦氏によって作られたもので、毎日夕方5時に刻を告げられています。

本堂

そして本堂。

分かりづらいですが肉眼で見た実物は重厚な存在感があり、外の通りからは想像をしていなかった東京23区内とは思えない静謐な雰囲気があります。

本堂の手前には緑のものと薄い小豆色のシダレモミジが。

本堂の扁額は寺号の『観泉禅寺』の文字が認められていて、揮毫は山門の扁額と同じ大光園心禅師のものです。

木鼻の部分は正面を向いているのは獅子で外側を向いているのは、毛のうねりと鼻がやや短いので象ではなくですね。

反対側もパシャリ✨

観音堂

本堂に向かって左側のこの建物は観音堂で本堂と同様に中には入れません。

そして観音堂の向こうには。

池泉鑑賞式庭園

手入れの行き届いた庭園が。

こちらは、池のぐるりを周りながら鑑賞する池泉回遊式庭園に対して、一方向から庭を鑑賞するように設計された池泉鑑賞式庭園です。

手前にはつがいの鴨がいて。

池には鯉がゆったりと泳いでいます。

池のほとりには丸石組みで曲線が美しい洲浜が。

洲浜は池を海に見立てた波打ち際を模しています。

洲浜の右奥には段落ち滝石組みが。

今川氏累代墓

庭園の反対側。観音堂の脇を通った奥が墓地になっています。

個人のお墓は写さないようにして、進んだところに石塀で囲われた一画があり。

こちらが今川家累代墓

英語での説明看板もあり、その下には。

どれが、今川家の誰のお墓かを記してありました。

肝心のお墓は撮影しませんでした。

ということで、お墓を早々に引き返して。

本堂に向かって右側に通り過ぎるように進むと。

竹林 

駐車場が見えてきて、その右手に孟宗竹の竹林が。

綺麗に手入れがされている竹穂垣があり。

右側にカーブしています。

なんだか京都に来たような既視感が。

ちなみに右側が竹穂垣なのに対して左側は格子状に竹を組んであるので、あえて呼ぶとしたら光悦寺垣になるかな?

今来た道を振り返ってパシャリ✨

ということで竹林の先が山門からは少し南の出入り口になっていたので、このまま観泉寺の境内を後にします。

境外仏堂

境内から出た公道を挟んだところに。

境外仏堂が。

こちらは生垣で仕切られているだけです。

これはデザイン的に阿修羅像かな?

そして注目すべきはその下に分かりづらいですが『見ざる・聞かざる・言わざる』三猿が。

こちらにも三猿が。

こちらの方が分かりやすいですね。

そして、反対側には築地塀に囲まれた境外仏堂が。

なんだか山奥の秘境にある石仏の雰囲気が。

ちなみに、この入り口の通りは中大付杉並高の通学路なので学生がひっきりなしに通っています。

こちらには6体の石仏がありますが、うち3体が地蔵菩薩でした。

こちらはポーズ的に弥勒菩薩(みろくぼさつ)と思われます。文字が刻まれていますが、僕には読めませんでした😅

こちらにも紫陽花が。

ピントをお地蔵さんに合わせてパシャリ✨


と。これを最後に帰途に着きました。


それにしても今川家と言えば駿河三河遠江を支配していた戦国武将今川義元ですよね。

今川義元と言えば、僕はテレビの印象で公家のような薄化粧を施しているイメージです😅

その今川義元が織田信長に討たれて、今川家は大名の身分を失い没落しますが、嫡男の今川氏真(うじざね)が、今川家存続の為に『大名家』のプライドを封印して、かつての家臣だった徳川家康に仕えます。主従が逆転したわけですね。

その後、三代将軍の徳川家光の時に氏真の嫡孫である今川直房高家(幕府の儀式や典礼を担当する役職)として家光に仕えます。

そして1645年(正保元年)に徳川家康日光に改葬する際に、それまでの『日光東照社』『日光東照宮』に改称するように天皇に願い出た際に直房が交渉役を務めて、その改称の了承を得ることに成功します。その、功績として新領地の井草村上鷺宮(現中野区)中村(現練馬区)の3ケ村500石が与えられます。

そして井草村にあった観音寺を今川家の菩提寺と定めて、直房の姉が寺号を観泉寺と改めて伽藍を現在地に移し、祖父の氏真を開祖として改葬したという流れです。ということで上井草より南側の地名の『今川』も、もちろん今川家から由来したものです。


などと歴史を紐解くと膨大な逸話があり、この記事でもかなりの部分は割愛してますが、それでも長くなってしまいます。


ちなみに、お寺の方とお話しする機会があり、お訊きしたら今年の秋の紅葉ライトアップは正式なアナウンスはまだですが開催が決定しているそうです。去年は2日間のみの開催で、今年も同じくらいの短い開催だと予想されるので行きっぱくれの無いようにアンテナを張っておきゃなきゃなと思いました。




ではでは👋