刻はさかのぼり4月4日のことです。



春のお写んぽ洛旅を失意の元に終えた翌週に、青春18きっぷが残っているのも手伝い福島&新潟遠征に凸りました💨

もうひとつ福島&新潟遠征を決めた要因があるのですが、それは次の更新で触れることにします。

今回は上野の始発に乗りたかったので、前日4月3日の終電で上野に来まして、コロナ禍の営業自粛が開けて再び始発待ちに使えるようになった18Kipperのオアシスであるガストに凸💨

いざ出発!

そして始発で、いざみちのくへ💨

途中の短い区間ですがチートをしたりして(笑)

喜多方で朝ごはんを食べようと思っていたら……

くらっちゃいまして(笑)

料理人の方が怪我をして長い間休業していたのですが、行った日の前日に営業再開となっていました。喜多方には行きたいラーメン屋さんが多いのですが、最初に喜多方でラーメンを出されたお店ということで言わば喜多方ラーメンの元祖なお店の源来軒

なので前々から行っておかなきゃなと思っていて、今回やっと白羽の矢を立てたという訳です。

しかしアイドリング営業なのでしょうね。早仕舞いをしていました😅

通常なら『他の喜多方ラーメンを』となるのでしょうが……

なぜか気が乗らず踵を返して会津若松駅へ。

会津若松駅から周遊バスに乗り、ここ飯盛山に到着しました。そしてお目当ての。

こちらに凸💨

会津さざえ堂の由緒

会津さざえ堂は寛政8年(1796年)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。    

また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。



※. 会津若松観光ナビHPより抜粋編集

ということで。

時間を少しだけ巻き戻して再度この写真の登場ですが、真正面の視線の先には急な階段が上へと伸びていますが。

後々の疲労を考えて通行料を払って横にあるエスカレーターで上ります。

平日ですが予想以上の観光客で賑わっていました。

まだまだ上があり、そこには白虎隊自刃の地などの観光名所があるのですが、今回は最初から目的は1箇所に絞っています。

さざえ堂(円通三匝堂)

それほど歩かずに、お目当ての『さざえ堂』が見えてきました。そして。

到着ド〜〜ン‼️

普段は画角を調整するトリミングが主流で、あまり写真の色味を加工しないのですが、今回は遊び心でガンガンとフィルターをかけていこうと思います。

ちなみに↑の写真はビビッド冷たいというフィルターを使いました。

このフィルターは、カラーとモノクロの中間な風合いになり、過去には秋の京都にて、愛宕念仏寺五百羅漢像などに使っています👍

こちらはフィルター無しの正面から。

唐破風造りの屋根の下の向拝(こうはい)には。

生々しさすら感じられる龍の彫刻が。

ウネウネと絡みついています。

数少ない僕の拙筆ブログを読んでいただいている方は感じでいると思いますが、僕のブログってやけにオノマトペが多いですよね😅

書いていて今ふとそう思いました(笑)

扁額

そして扁額には『福聚海』(ふくじゅかい)と認められています。

これは『福徳が集まることが海のように広大である』という仏語の福聚海無量から来ていて、『観世音菩薩の恵みが広大である』と賛美した言葉です。

その下、入り口の左には各陛下が御登臨されたという額が掲げられています。

郁堂禅師坐像

入り口正面には、このさざえ堂を建立した郁道禅師の坐像がお出迎え。

それでは正面向いて左側から時計回りに螺旋状に上っている通路へいざ💨

写真のように階段ではなくスロープ状になっていて細かな間隔で木の桟が横に渡してあるので、足元の覚束ない僕でも楽に進めました✨

色味を変えてパシャリ✨

そして上り切ったところに太鼓橋が渡っていて、ここを渡ると下りになります。

ここさざえ堂は他にはあまり類を見ない特殊な構造になっていて、古建築愛好家のマニアに人気な理由があります。

それは螺旋状に上って頂点のところから、また螺旋状に下るのですが、その際に上りと下りの通路は交わることが無く、上る際に下っていく人と一切すれ違うことの無い構造になっています。

折上げ鏡天井

お堂内の最上部は折上げ鏡天井になっていて。

千社札がギッシリと。

ビビッド(冷たい)というフィルターをかけると、雰囲気のある写真になります👍

アップでド〜〜ン‼️

ってな訳でアーチ状の太鼓橋を渡って下っていきます。

下りは上りよりも慎重にソロリソロリと。

写真にこそ撮りませんでしたが、堂内のあちこちに悪戯書きが目立ちましたが、文化財にはやめて欲しいですね。

ということでさざえ堂を後にして、帰りは来た時ほどは急ではない反対側の坂をエッチラと下ります。

目線の先には何やら建物が見えてきました。色味からして屋根は銅板葺かな?

厳島神社

その建物は。

厳島神社でした。


会津 厳島神社の由緒

創建は、南北朝時代の1381年〜1383年と言われ、地域の豪族である石塚氏・石部氏・堂塚氏の三家により社殿が造営されたのがその始まりとされています。

厳島神社の社名は慶応3年(1868年)の神仏分離令に際して改名されたものです。

創建のきっかけは、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げによるものと伝えられています。

社殿造営中も童女達が姿を現し、人夫達に小豆ご飯を振る舞います。ところが、この小豆ご飯をいくら食べても減らなかったことから当地の地名を『飯盛』としたという説があります。



※. ぐるっと会津HPより抜粋編集

だそうな。

鳥居の手前から社殿をパシャリ✨

鳥居の扁額もパシャリ✨

杉の木の合間から社殿をパシャリ✨

その脇を急で綺麗な流れが。

その先には先ほどのさざえ堂が見えています。

戸ノ口堤洞穴

この流れの先に。

戸ノ口堤洞穴がありました。

この戸ノ口堤は会津の原野を開墾する目的で、会津の原野よりも高い場所に位置する猪苗代湖から水を引く為に、江戸時代初期の元和9年(1623年)に起工します。

途中、財政難などにより幾度も工事が凍結されますが、70年後の元禄6年(1693年)に鶴ヶ城下まで開かれました。

その後、戸ノ口堤は度重なる水害に見舞われた為に全体の改修工事が行われ、その後、戸ノ口堤のうち飯盛山の山腹約150m区間が延べ55000人もの人夫の手でトンネル化されました。

白虎隊士の自刃

そしてこの戸ノ口堤洞穴は慶応4年(1868年)に、戊辰戦争戸ノ口原の戦いで新政府軍に敗れた白虎隊士中二番隊20名が鶴ヶ城に戻るため水に浸りながら、この洞穴を潜り抜け、その抜けた後に城下町が炎上しているのを見た隊士達は、鶴ヶ城が落城したと誤解して自刃したという悲しい過去があります。

ということで長くなりましたが、これにて飯盛山を後にしました。

ってなわけで、この日の天気予報は1日中曇りのマークでしたが、↑の写真のように晴れ間が見えていてひと安心で昼ご飯の地へと向かいました。とさ。



ではでは👋