3月27日のことです。


六角堂を後にしまして、続きましては。

こちらに凸💨

一条戻橋の歴史

一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、一条通の堀川に架けられた橋で延暦十三年(794年)の平安遷都とともに架けられたと伝えられる。

現在の橋は平成7年(1995年)に架け替えられたもの。

この橋から100メートルほど北にある晴明神社には平成7年まで使用されていた欄干の柱を使用した一条戻橋が縮小版で復元されている。

また、嫁入り前の娘やその家族などは、嫁に出た娘が実家に戻ってくることがないよう、戻橋には近づかないという慣習があるという。

だそうな。

こちら一条戻橋は、見た感じは特に何の変哲のない橋に見えるのですが、これがまた数々の伝説が残っているのです。

神社仏閣巡りが好きなくせにスピリチュアル的なものはノーサンキューですが、伝説などは『事実』としては信じませんが。そこは。ホレ。

ファンタジー的に面白いですよね✨ そのファンタジーも否定してしまったら人生クッソつまらなくなりますからね👍

ちなみに、かつては夢枕獏作品の愛読者だったので陰陽師に関係のある、ここ一条戻橋も『いつか来よう』と画策していたのであります(・`◡︎´・)ゝ

それでは数々の伝説がある中から、いくつかをどうぞ🫱

戻橋の名称となった由来の伝説

漢学者で参議だった三善清行(みよしきよつら)の八男に浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)という修験者がいました。

延喜18年(918年)、紀州は熊野で修行をしていた浄蔵のもとへ父が危篤だという知らせが届きます。

急いで都へ向かった浄蔵は、この橋にさしかかったところで葬列に出会います。
父の臨終に間に合わなかった事を悟った浄蔵は、父に一目会いたいという一心で祈ると法力が届き、父は一時的に冥府からこの世へ戻ることを許されたとのだいう。
それ以来、『土御門橋(つちみかどばし』と呼ばれていた橋は『戻橋』と呼ばれるようになったのだとか。
ちなみに浄蔵貴所には『八坂の塔が傾いた際に法力により元に戻した』という伝説もあったります。

鬼女伝説 

源頼光の四天王のひとり渡辺綱(わたなべのつな)は、戻橋のたもとで愛宕山の鬼女(きじょ)が化けた扇折小百合(おうぎおりさゆり)に出会った。
その際に水面に映った影で鬼女だと見抜いた綱は源氏重大の『髭切の太刀』で鬼女の片腕を切り落としたのだそうな。

ちなみに渡辺綱は紫式部が書いた『源氏物語』『光源氏』のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)の子孫で、髭切の太刀は『平治の乱』(へいじのらん)に初陣した源頼朝が帯びた名刀です。

安倍晴明の式神伝説

陰陽師として広く知られている安倍晴明が使役する式神(十二神将)の顔が怖いと恐れる妻を気遣い、普段用事の無い時には十二体の式神の人形(ひとがた)を戻橋の下に置いた石櫃(いしびつ)に閉じ込めていたと伝えられています。

↑もちろん現在は石櫃なんぞはありません。


『源平盛衰記』によれば高倉天皇の中宮建礼門院の出産の折、二位殿がこの戻橋で『橋占』(はしうら)を行うと、12人の童子が現れて唄いながら橋を渡り生まれてくる子の将来を予言します。

その内容は『生まれてくるのは皇子で後に皇位につくだろう』というものでした。

この12人の童子は安倍晴明が石櫃に入れていた式神たちだったのだとか。

一条戻橋の河津桜

ということで最後に一条戻橋にわずかばかりに散らずに残った河津桜と、散り紅葉ならぬ散り桜をどうぞ🫱

橋の欄干には散った桜がピンク色に。

これはこれでいいですね✨

葉桜になっていて。

散っているのですが。

まだ咲いている部分も残っています。

欄干から下を見るとピンクの絨毯が。

桜の咲いていない方は綺麗です。けどなんだか寂しさもあったりなかったり……

先ほどの欄干の上から見えた部分に下りてみました。

この景色は年間を通して数日だけしか見られませんので、ソメイヨシノにはズレてしまいましたが、探せばあるものですね✨

橋の上に戻りまして、これは、これから咲く感じで蕾が目立ちますね。  


ということで繰り返しになりますが直前だとホテルが予約が一杯または価格がべらぼうに跳ね上がるので、ギャンブル的ではありますが、1月から2月頭くらいにかけての桜の開花予想を元に『エイヤッ!』とホテルの予約をしたものの……

その予想は1日また1日とズルズル開花予想がズレ込んで、結果的には約10数年ぶり平年の開花日よりも遅くなるという……

京都に到着したこの日も開花宣言は出されていません(  ᵕェᵕ̩̩  )♡

ってなことでウジウジ考えても始まらないのでソメイヨシノは完全に頭からは除外して早咲きの桜が見られるところを巡るように決めたのでした。とさ。



ではでは👋