11月29日のことです。
みなとや本舗を後にして向かったのは、僕の足でも歩いて2分ほどの目と鼻の先にある。
こちらに凸💨
京都に数多ある寺社仏閣のそれとは趣を異とする近代的な外観が出迎えます。
六波羅蜜の由緒
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、天暦5年(951年)醍醐天皇の第二皇子である光勝空也上人(こうしょうくうやしょうにん)により開創された西国第十七番の札所である。
当時京都で流行した悪疫退散のため、空也上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて病魔を鎮めたと伝えられている。(現在も皇服茶として伝わり、正月3日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年(963年)緒方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが六波羅蜜寺の起こりである。
※ 六波羅蜜寺HPより抜粋編集
だそうてす。
鉄門
今回は清水道バス停で降りて、松原通りを西に進みみなとや本舗の店前を左折して向かったので北側からアプローチをしました。
すると↑の本堂の正面にあたる鉄門がお出迎えするのですが、ご覧のように門扉は閉ざされているので、そのまま進むと。
先にある、こちらが入り口です。
写真には妙齢の御婦人が映り込んでいますが、修学旅行生が目立ちます。
やはり教科書に出てくるような仏像などがあるからでしょうね。
縁結び観音菩薩像
入り口を潜ると六波羅蜜寺の本尊である十一面観音菩薩像を模した縁結び観音菩薩像が。
ちなみに本尊の十一面観音菩薩像は12年に1度の辰年、つまり今この記事を書いている2024年の今年ご開帳されます。
弁天社
そして入り口の真正面には弁天社が。
こちら弁天社は都七福神めぐりの発祥だそうです。
都七福神を祀っている寺社は以下です。
・京都ゑびす神社(恵比寿天)
・妙心寺【松ヶ崎大黒天】(大黒天)
・東寺(毘沙門天)
・赤山禅院(福禄寿)
・六波羅蜜寺(弁財天)
・行願寺【革堂】(寿老人)
・萬福寺(布袋尊)
本堂
そしてこちらが本堂。
近代的な外観とは異なり本堂は室町時代の貞治2年(1363年)に建てられたものが現存していて、応仁の乱(1464年〜)の戦火を免れて残っている大変貴重な建物です。
もちろん国の重要文化財に指定されています。
貫や垂木や柱、肘木などに中国の影響を感じさせる細かな文様が極彩色を用いて描かれています。
どこか日光東照宮を彷彿とさせる色使いですよね。
三蹟のひとり藤原佐理(ふじわらのすけまさ)の筆による六波羅蜜寺と書かれた銅製の扁額も時代の存在感を醸し出します。
宝物館
その本堂から入り口向かって右側に歩を進めると。
朱色の門があり、その先に。
(築地塀の定規筋はやはり5本線)
令和4年(2022年)の5月に新設公開されたピカピカの令和館が。
宝物の数々はこの中にあり、空調や湿度調整が管理されていて、撮影はもちろん写生やメモ書きなども厳しく制限されています。
館内に安置されている14体の重要文化財を含む17体の像を、じっくりと目に焼き付けてきました。
そして、なんと言ってもその17体の像の中でも僕の目当ては。
都のヒーロー空也上人
(六波羅蜜寺ホームページより)
どなたでも1度は目にしたことがあるであろう、この空也上人立像(くうやしょうにんりゅうぞう)です。
教科書はもちろんのこと、去年(2023年)の春頃から『そうだ 京都、行こう』のテレビCMでもお馴染みですね。
ちなみに今回の京都遠征はメインの行き先として早期から行くことを予定に組み込んだ場所が数カ所あるのですが、この六波羅蜜寺にある空也上人立像を肉眼で見てみたいというのが瑠璃光院の紅葉のリフレクションと同率くらいで楽しみにしていたのであります(・`◡︎´・)ゝ
ということで空也上人についてを少し掘り下げてみたいと思います。
空也上人は延喜3年(903年)頃に生まれたとされていますが、確実な年月日は分かっていません。
そしてその出自は醍醐天皇の落胤(らくいん)とされる説や六波羅蜜寺のホームページでは醍醐天皇の皇子と書かれていますが、こちらも諸説があり確定に足る資料は現存していません。
今からおよそ1000年前の空也上人が生きた平安京では、東国では平将門の乱、西国では藤原純友の乱が勃発して(両方の乱を承平天慶の乱《じょうへいてんぎょうのらん》と総称される)、国の政治が揺らいでいました。
そこに天然痘や赤痢などの疫病も蔓延して多くの人の命が奪われ、大地震や洪水にも度々襲われます。
世の中が乱れる中、人々は死後の世界に感心を高めていきます。
『この世の暮らしは辛いばかりだから、せめてあの世では極楽では安心を得たい』
しかし当時の仏教の教えでは、極楽浄土に行けるのは限られた者だけとされていました。
滝行や護摩行など難解で厳しい修行を積み習得した者、または多額な金品を奉納できる裕福な者。
それが出来なければ極楽には行けず悪行を犯した者は地獄に落ちるしかないとされていたのです。
しかし、そんな仏教に疑問を抱いたのが空也上人です。
若くして貴族の暮らしを捨てて出家して、国内各所(.五畿七道)を巡り28歳の時、播磨国(現在の兵庫県)の寺で経典を読み耽る中『南無阿弥陀仏』の念仏を広めることを決意します。臨終の際にある人に付き添う時も、亡骸を荼毘に付す時も、ひたすらに『南無阿弥陀仏』を唱え続けました。
36歳になった空也は平安京に戻ります。そして都の真ん中に石の卒塔婆を建て、そこに歌を刻みます。
『ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の 蓮(はちす)の上に のぼらぬはなし』
1度でも南無阿弥陀仏と唱えた人はお釈迦様の座る蓮の根、すなわち極楽浄土に必ず行けるという意味です。
処刑場に向かう囚人達は、この歌を聞き安堵の涙を流したと伝えられています。
特別な者だけではなく念仏を唱えることで誰もが救われると説いた空也は阿弥陀聖(あみだひじり)と呼ばれ多くの人から慕われるようになります。
以上のように空也上人は平安の都のヒーローだったのでしょうね。
ということで『そうだ 京都、行こう』のCMでナレーションを務めた俳優の柄本佑さんが『なぜ口から6体の仏像が出ているんだろう』と問いかけますが、これは同ホームページに答えが出ています。
この空也上人の口から出た蓮の花の上に立つ6体の仏像は『南・無・阿・弥・陀・仏』の念仏を具現化したもので、言わば漫画の吹き出しですよね。
この立像が作られた鎌倉時代の始めに、この発想があったというのが驚きです。
とまぁ本当はもっとたくさんの逸話があるのですが長くなるのでこの辺で。
実物を見た僕の感想は、手の甲の血管やクッキリとしたアキレス腱、水晶を嵌め込んだ玉眼など、とにかく細部に渡って写実的で長年の護摩行などの煤が像の全体を覆って黒ずんでいますが、その造形の巧みさで、今にも動きそうな錯覚をおぼえました。
(六波羅蜜寺HPより)
あとは平清盛坐像も、人の中身まで見透かすような値踏みするような目と表情が印象的でした。
いやはや自分が生きているうちに肉眼で見ることができて、実際には、この時は既に二尊院のアップダウンにやられて脚を引きずりながら歩いでいるのですが、内心ではスキップを踏むくらいの高揚感を抱きながら次の目的地に向かいました。とさ。
ではでは👋