またまた時系列的にジグザグになっておりますが、2023年11月30日のことです。


興臨院を後にして、歩いて10分程度の距離にある。

こちらに凸💨

紫野 今宮神社の由緒

正暦5年(994年)、平安京で流行した疫病を鎮めるため疫神を祀り御霊会を行ったのがはじまり。健康長寿・災疫鎮静の社。本社には大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、疫神社には素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。現在の社殿は明治29年に本社殿を消失したが明治35年(1902年)に再建されたもの。境内には『阿呆賢さん』と呼ばれる神占石があり、願いを占う人が多い。良縁開運のご利益としても知られる。4月第2日曜のやすらい祭は、当時の疫病鎮静の古い祭を伝承するもので、京の三奇祭のひとつ。 


※ 『そうだ 京都、行こう』HPより抜粋編集 

社号標のすぐ奥の。

常夜燈を抜けると。

参道があり。

その両サイドは人気の。

一文字屋和舗

あぶり餅一和さん。

一和さんは創業1000年を超えていて、日本最古の菓子店です。

人の写り込みを考えながらの画角で撮っているので、写真では感じないかと思いますが、お客さんがごった返していました。

その反対側が。

かざりや

これまた人気の『かざりや』さん。

店頭では炭火でせっせとあぶり餅を、その名の通り炙っています。

見ていると今にも手が炭火に着きそうに見えますが、やはり長年の経験でギリギリのところを熟知しているのでしょうね。

そして肝心のあぶり餅ですが、事前には予定に組み込んでいたのですが、スケジュール的な兼ね合いで写真を撮らせていただいただけで歩を先に進めました。

玉の輿神社

今宮神社の東門に続く東側参道の両サイドにあるあぶり餅の茶屋は時代劇『鬼平犯科帳』のロケなどで度々使われているので、今宮神社に来るのは時代劇ファンかと言えば、そうではなく『玉の輿にあやかりたい』女性の参拝客が多いそうです。

と言うのも、今宮神社は『玉の輿』の由来となった『お玉さん』と所縁が深いので『玉の輿神社』と呼ばれているからです。

この話しは長くなるので祇王寺の時のように途中途中に写真を挟み込みながら進めます。それでは。


今宮神社のある紫野に程近い西陣の八百屋さんお玉さんという娘がいたのですが、八百屋を営んでいた父親が急死してしまい、父が野菜を納めていた下級武士である本条家の養子になります。

『士農工商』の厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代に、いきなり『商』から『士』にジャンプアップします。

ってもう、この時点で出世運の強い女性だったのが窺えますよね。

(東門)

その後、本条家の養子になったお玉さんは公家出身の尼僧侍女として奉公することになります。

ということで、ここでまた『士』から『公家』へとジャンプアップ。

って奉公人だから公家じゃないでしょというツッコミは、まぁ置いといてください😅

そしてこの尼僧は後に将軍・徳川家光の側室『お万の方』になる人だったのです。

(元禄の遺構である神橋)

尼僧が側室に? と思われる方もいると思いますが、実は、その尼僧が住職を務める寺は伊勢にある慶光院という格式の高い寺院で、公家の姫が剃髪して修行をし住職になる決まりがありました。

つまり、お玉さんが奉公した尼僧は自分が希望して出家をした訳ではなく、家の決まりで尼になった公家のお姫様だったのです。

(宗像社)

そうして、寛永16年(1639年)に尼僧は将軍・徳川家光に挨拶をするために江戸城に行くことになります。当然、お玉さんも尼僧のお供をして江戸城に同行します。そしてここで、とんでもないことが起こります。

(楼門)

なんとなんと家光が尼僧に一目惚れをしてしまったのです。尼僧は、そのまま家光の側室『お万の方』として大奥に入ることになり、お玉さんも大奥で暮らすことになります。

その後、お万の方が大奥を仕切る女傑になったのは多くのテレビドラマや映画などで広く知られていますが、人生とはつくづく分からないものです。

(絵馬舎)

さらに、お玉さんも成人をすると家光に見初められて側室になります。

大奥は将軍に見初められて出世したいと願う女性の戦場だったと言われます。

その中で家光の目に留まったのですから、お玉さんは他とは違う何か光るものを持っていたのでしょうね。

そして、お玉さんは家光の子を産みます。しかも男の子を。それが後の五代将軍・徳川綱吉です。

綱吉と言えば悪名高い『生類憐みの令』で知られ『バカ将軍』などと揶揄されたりしますが、今回はお玉さんの話しにスポットを当てているので、綱吉さんの深掘りは、ここではしないでおきます。

(織姫社)

ただ当初は、綱吉の上に2人の男の子がいたため、将軍を継ぐ可能性はほとんどありませんでした。

ところがお玉さんは諦めずに『この子が将軍になった時のために』と熱心に綱吉を教育しました。

(八社)

そんな中、家光が病死して四代将軍は予定通り家綱になり、家光の側室であるお玉さんは出家して桂昌院(けいしょういん)となります。

普通ですと、ここで諦めますが、お玉さんは諦めません。桂昌院になった後も綱吉の教育に熱心だったそうです。

(阿保賢さん)

すると奇跡が起こります。

四代将軍の家綱が急死してしまったのです。家綱には子供は無く、家光の次男もすでに他界していました。

(拝殿)

(拝殿正面)

そうです。お玉さんの子である綱吉しか将軍を継ぐ男子がいなかったのです。

こうして五代将軍の綱吉が誕生して、八百屋の子だったお玉さんが将軍の生母になりました。何というサクセス・ストーリーでしょうか。

サクセス・ストーリーと言えば百姓の家から関白になった豊臣秀吉が有名ですが、女性だったらやはりお玉さんなのではないでしょうか。

なんたる強運の持ち主。『玉の輿』の語源になるのも頷けます。

本社

ということで、やはりお玉さんの話しが今宮神社の中で特筆ものだったので、長々と取り上げで境内案内はダイジェスト的になりましたが↑が本社です。

唐破風の拝飾りをはじめとする造りが豪華ですね。

少しアップでパシャリ✨

疫社

素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る疫社。

屋根の一角をアップでパシャリ✨

とまぁ長くなるのでお社の写真も、けっこう端折ってしまったのですが。

あっそうそう。


最後に。

お玉さんと今宮神社の所縁は結局のところ何?ということを書いていませんでしたね。

まずひとつは冒頭の方で触れましたが、生まれたところが近いというのと、お玉さん…… いや桂昌院さんは晩年に、寺社の復興に尽力します。

特に生まれ故郷の近くにある今宮神社に対する思いが強かったと伝えられていて、元禄7年(1694年)には御牛車を寄進したり祭事の整備や氏子区画の拡張をし、社領として50石が与えられています。


やはり『京都に帰りたい』という想いがあったのでしょうか?


そんなことに想いを馳せつつ。今宮神社を後にしました。とさ。


 

ではでは👋