また時空を巻き戻して去年の11月29日のことです。


小倉山の斜面に境内が広がる二尊院を後にしまして。

寺前の通りを北に向かって目と鼻の先くらいのところに↑の写真の丁字路があり、真っ赤な紅葉が植っている脇の細めな小路に入って行くと。

案内版ド〜〜ン‼️

そして石段を上ると。

苔むした屋根がありまして。

ちなみに左側の石段をさらに行くと滝口寺がありますが、その滝口寺にも、これまた悲恋の物語があるのですが今回はそちらには寄りません…… ということで。

入り口の看板ド〜〜ン‼️

今回は祇王寺にスポットを当てます。

祇王寺の由緒

祇王寺(ぎおうじ)の寺伝によれば、この地は平安時代に法然上人の弟子である念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。

平家物語によれば、祇王は平清盛に仕えた白拍子であったが仏御前(ほとけごぜん)の出現により清盛の心が離れてしまい、祇王の母の刀自(とじ)と妹の祇女(ぎじょ)と共に出家して当地に移り住んだ。後には、仏御前も加わり念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。

現在の本堂は、明治28年(1895年)に再建されたもので、堂内には本尊である大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら4人の尼僧像を安置している。


※ 京都観光Naviより抜粋編集

と由緒書きでは軽く触れる程度ですが写真を紹介しながら、その悲恋の物語を紐解いていこうではありませんか。

山門

小ぢんまりしていて可愛らしさをも感じる山門の屋根の上には、苔の上に紅葉が落ち始めています。

苔庭

こちら祇王寺は『苔の寺』と言っても大袈裟ではないくらい立派な苔の庭が広がっているのですが、その苔の上にビッシリと紅葉の絨毯が。

境内は決して広くはないのですが、どこを見ても絵になる苔と紅葉のコラボレーションが広がっています。

今回のように詰め込みスケジュールではなく、このようなところで気の済むまでゆったりと過ごすのもいいなと思いつつ写真をパシャリながら歩きます。

黄色からオレンジ赤という紅葉のグラデーションが綺麗です。

竹穂垣に守られるように竹林が広がる一角も。

こちらも参拝する人は少なくないのですが祇王寺の醸し出す雰囲気に同調するかの如く、皆さん間隔を空けつつ写真を撮っていて静かでゆっくりな時間が流れます。

草庵の建物の脇に来ましたが線香花火を逆さにしたような嵯峨菊が✨

こんもりと丸い下地に密生した苔に散り紅葉が✨

蹲踞の周りにも散り紅葉🍁

南天越しの紅葉🍁

手水鉢にもモミジが。

草庵

そして草庵に靴を脱いで上ります。

入ってすぐ左に、かつてこの一帯が境内でしたが今は無い『往生院』扁額があり、その下が仏間になっていて祇王らの木像が安置されているのですが、仏間は撮影禁止なので。


『そうだ 京都、行こう』さんから拝借。

このように仏間の前には化粧板が貼られ、それが縦長の楕円に窓のように切り抜かれていて、その窓から木像が見られるようになっています。

左から刀自祇王平清盛、本尊の大日如来祇女仏御前となっています。

ここで、お気づきになったでしょうか?

平清盛像だけが大日如来像と祇王像の間の正面からは見えない位置に置かれています。大日如来像の向かって左側に、申し訳なさそうに体の左端が見えています。

お寺の方に尋ねたら『そういう説もありますね』と言葉を濁されていましたが、僕はわざと、この配置にしていると思います。

悲恋の物語へのいざない

ということで、お寺の由緒書きに軽く触れられていますが、ここで少々詳しい悲恋の話しを、撮影した写真なんぞを挟みながら紐解いていきます。


物語の主人公である祇王は↑のイラストにもある『白拍子(しらびょうし)』と呼ばれる男装をした、今で言うところの舞妓です。

祇王平清盛に身染められて寵愛を受け、清盛の住む西八条殿に住み、母の刀自(とじ)は家を建てて与えられて、月に百石百貫にて召し抱えられます。

そうして何不自由なく暮らしていましたが、その幸せは長くは続きません。

祇王が清盛の邸に上がって3年が経ったころ、都で名を馳せていた加賀生まれの容姿端麗で舞の上手な『仏御前』という白拍子が、邸に来て清盛に接見を願い出ます。

 (草庵内から見る吉野窓)

すると取り次ぎが清盛に『今、都で舞が1番と噂される白拍子の仏御前が参っております』と。

それを聞いた清盛は『遊び女は呼んで参るもの。仏だか神だか知らぬが、ここには祇王がいるものを。即刻追い返せ』と門前払いを命じます。

(嵯峨菊)

そこに祇王が割って入り『見れば歳端も行かない娘。そのように素気無く断られては可哀想に御座います。同じ道を歩む者として、お願いで御座います。どうぞ会ってやってくださいまし』と進言し、この祇王の言葉に仏御前は邸に呼び戻されます。

そして歌に続いて舞を披露すると清盛はみるみるうちに魅せられてしまいます。

舞を終え『それでは、これにてお暇致します』と言う仏御前に『待て。ここを出ることは相成らぬぞ』と清盛。

『これは何としたことでしょう。わらわは新参者。すでに追い出されし所を祇王様の御口添えにて召し返されし身。それでは祇王様に顔向けできませぬ。早々にお暇を下されませ』と言う仏御前。

『それは叶わぬ。汝は祇王が事を憚るのか。ならば祇王を追い出さん』と清盛。

かくして祇王は清盛の邸を追い出されることになります。

その後に祇王は慣れ親しんだ部屋の障子に。


  萌えいずるも 枯るるも

                 同じ野辺の草 

          何れか秋に あはではつべき

 

と書き付け邸を後にします。

『春になって萌出る若草も露に打たれて枯れる枯れ草も、元はと言えば同じ野辺の草。栄華の差はあるけれど、いずれ凋落の秋に会わぬわけにはいかないでしょう』という意味です。

その後も、すったもんだがありますが割愛して💦


それから母刀自、妹祇女と共にこの嵯峨野の地で髪を下ろし、念仏を唱える毎日を送ります。

そして、しばらくの後に仏御前も祇王を追い遣った悔恨と、いずれ自分の身にも同じ事が降りかかるかもしれないという思いから、祇王の元に来て同じく念仏を唱える毎日を送る事になります。


祇王21歳、刀自45歳、祇女19歳の時の出来事です。


とまぁ、けっこう割愛しましたが、これが大まかな祇王の身に降りかかった悲恋の物語です。


この話しを聞いてしまうと、先に出したあの仏間の清盛像の配置が意図したものだとピンと来ると思います。


な〜〜んて平安時代のことを頭に想い描きつつ、平家物語の思いっきりド真ん中の祇王寺を後にしました。とさ。

 


ではでは👋