11月27日のことです。


瑠璃光院の紅葉リフレクションを堪能した後に向かったのは。


こちら〜〜💨💨💨


栖賢寺の由緒

栖賢寺(せいけんじ)は、南北朝時代の康永年間(約650年前)、尼崎大物の地(今の兵庫県)に臨済宗大徳寺派の寺院として、大徳寺74世竺堂円瞿(じくどうえんく)禅師によって開山されました。

本能寺の変の後、明智光秀勢の待ち伏せにあった秀吉が、剃髪し僧形になって栖賢寺に身を隠し難を逃れた逸話が『絵本太閤記』に残っています。この逸話がそのまま史実であるかどうかは分かりませんが、秀吉の軍議が栖賢寺で開かれたことや、千利休との関わりはあったようです。その縁からか、天下統一後の秀吉より寺領を寄進されています。

中興開山は、大徳寺総見院において、織田信長の葬儀の導師を勤めた、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)禅師。

近代に入り荒廃していたところを実業家で数寄者であった山口玄洞氏の寄進により、臨済宗方広寺派元管長、間宮英宗老師を昭和の中興開山として、昭和7年、京都市左京区上高野の現在地に移転再建されました。山口玄洞氏は多数の寺社仏閣の復興に尽力した人物ですが、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、悪人でも襟を正すような景勝の聖地にある事などを条件にしたといいます。

現在栖賢寺は、無檀家の禅寺で1000坪の境内地の中に庭園、観音堂、鐘楼、鳳凰閣、茶室、本堂などの伽藍を持ちます。しばらくの無住の時代を経て、2016年7月に新住職が安居。真の平安を志す仲間とともに老朽化した境内の維持、復興に向けて、日々坐禅や精神的な修行を中心とした寺院活動に勤めています。


※栖賢寺ホームページより

 

とまぁ端折ってしまうと豊臣秀吉に深い縁のあるお寺だということです。

大原街道(鯖街道)

瑠璃光院を後にして八瀬比叡山口駅には左折せずに国道367号、通称『鯖街道』『昔はこの若狭と京を結ぶこの道を色や文化が往来したんだなぁ』と、ぼんやり考えながらトボトボと歩きます。

すると黒味を帯びているような真っ赤な紅葉が。

スマホのナビはこの辺だと言っております。


が。


お寺さんと思しき建物は見当たりません。すると。

ナビが示す右側を注視しながら歩いていると、何の変哲もない住宅の脇に石柱が。

目的のお寺が頭にあったので大丈夫でしたが、何の気無しに見たら達筆過ぎて読めなかったかも😅


そして、この寺号標の右側の道を恐る恐る住宅を回り込むように進むと。

山門

山門がありました。

とのことで『当寺は禅の道場で観光寺院ではない故に積極的な宣伝はしてくれるな。中を拝観する場合は境内維持の為に志納料500円をお願いします』と書いてあります。

そう、数年前までは絶対にSNSなどに載せてはダメ‼️ くらいの頑なな感じで、地元である京都市民の中でも知る人ぞ知るところでしたが、今はその頃よりも緩くはなっているようで、各ブログなどで紹介されています。

ということで↑の写真にもある志納函の竹筒に志納料を納めて山門を潜ります。

山門を抜けるとすぐにイチョウとモミジが出迎えてくれます。

実は、ここはイチョウとモミジの散ったところが物凄く綺麗なのですが、やはり5日から1週間くらい早かったようで、イチョウの葉のみが散っていました。

如意輪堂

よ〜く見ると分かると思いますが、数人分の靴が観音堂の入り口にあり、近くに行くと2組が来られていました。

観音像がありますが、碑文によると2006年に72歳で亡くなった男性と2013年に101歳で亡くなった前住職の奥さんの供養塔でした。

層塔(十三重塔)

こちらは青モミジが目立ちますね。

高台から

分かりづらいと思いますが、屋根が左側から中央部に向かって下っています。

石塔近くも青モミジが目立ちます。

茶室

蹲踞(つくばい)にもモミジは落ちていませんでした。


ちなみにですが先客が2組いたと先述しましたが、1組は若い女性の2人組で、もう1組は僕の苦手なアノ国の家族連れで雰囲気をぶち壊す大声でワ〜キャ〜やっていたので、このように必要最低限の写真をサクッと撮って逃げるように栖賢寺を後にしました。とさ😅


『もっと寛容になりなさいな』という意見もあるのでしょうが、小さな頃から『人の集まるところでは静かにしなさい!』と口酸っぱく言われて育った身としては、ああいう空気の読めない自己中な振る舞いをする人達はハッキリ言って苦手です(`・ω・´)キリッ

 

というような恨み言を毎回触れるのもアレなので、今後は言及しませんが明らかにササッと感がある記事は…… そういうことだと察してください😅


いやぁあのコロナ禍の渡航制限をしていた時に、今回のようなガッツリまわりをしておけばと後の祭り的なことを考えながら栖賢寺を後にしました。とさ。



ではでは👋