2024年秋。
今回は3年ぶり、二度目の静岡旅行になります。
こちらがリアルタイム旅行記。
出立直前の千歳空港。
今回はいつもとルートが少々異なってまして、飛び立つや大きく旋回。
ここからだと千歳空港の背後に支笏湖と羊蹄山が見えるんですよ。
空港から支笏湖まで直線距離約40km、羊蹄山まで100km
支笏湖と雲に隠れた羊蹄山
倶多楽湖
洞爺湖
駒ヶ岳と内裏湾
最上部くの字箇所が榎本軍鷲ノ木上陸跡地
北海道最南端の白神岬と松前町
松前町をズーム
画面ド真ん中あたりに松前城
更にズーム
画面ド真ん中あたりに微妙に見える三角形の物体が日本一のしょぼ天守
さらば北海道
こんにちは本州
竜飛崎
高野崎
雲が結構多くてですね、この先しばらく雲海が続き…
長野県上空あたりでしょうか、雲が晴れる
日本アルプス
反対側だったのでマウント・フジは見えず。
奥に見える一際高いのはおそらく笠ヶ岳
御嶽山
ズーム
煙吹いてるのがしっかりと確認できる
そろそろ愛知県に入っただろうか
気付けばもう知多半島では
旋回してよくわかる半島の形
丁度、飛んでくところだった二機。
愛知県着。
本日の昼食
この後、しばらく走りまして…
一路、静岡県浜松市まで
二俣城跡
帰ってきてから知ったんだけど、どうも駐車場側から直通してるのは搦手側だった模様。
堀切跡
上から
橋を渡ると北曲輪で、旭ヶ丘神社が鎮座している。
曲輪の周りは現代石垣です。
搦手門跡と思わしき虎口
本丸跡
築城年は不明だそうですが南北朝時代らしい。
斯波氏と争っていた今川氏が拠点として築城したのがはじまりだそう。
今川氏滅亡後は徳川の城となりますが、
後に武田信玄の西上作戦によって二俣城の戦いが勃発。
一度は武田方に城を奪われますが、長篠の戦い後に取り戻します。
家康は重臣の大久保忠世を城主とし、当時に武田への万全の備えとして城を改修させ、
その後も武田軍から度々攻撃を受けるも最後まで落城しなかった。
豊臣の天下統一後、家康の関東転封に伴い堀尾吉晴が浜松へ入城。
二俣城はその支城となりますが、
城の石垣類の建造には堀尾時代説と忠世時代説がある。
時期的には堀尾時代の方が有力な気がしますが、
現在に残る城郭の姿は、忠世時代の改修説が確定らしい。
おそらくは忠世の造った土塁の城郭へ堀尾が石垣で強化した説が有力な気がする。
こちらが天守台
結局、天守は築かれなかったそう。
木彫りのフクロウが居たので
フクロウ大好きトシゾー教授と一緒にw
天守台の真下
隅石が微妙に算木積みになっているので、やはり堀尾時代だと思う。
天守台の上から
草ボーボー
どうもこの右側の木の奥に大手口へと続く通路があったそうなんですよね…
完全に死角になってたわけですが…そちらの通路が本来の正規ルート。
すっかり本丸しか残っていないと思い込んでいたが、実は二の丸・三の丸も現存しているとは…
まんまと駐車場位置に騙されたわ…
そして、二股城にはもう一つ有名エピソードが。
世にいう信康自刃事件。
家康の長男・信康が幽閉されていたのが二股城。
そして自刃したのも二股城。
以下、三河物語に記述の内容。
信康の正室の徳姫(信長の娘)は築山殿(家康正室、信康生母)との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、
父・信長へ信康と不仲であること、築山殿が武田と内通していることを記した手紙を書く。
信長は使者となった酒井忠次へ手紙の内容を質すが、忠次はこれをすべて肯定。
これを受けて信長は家康へ信康の切腹を要求した。
というもの。
現在ではこれが通説となっているが三河物語はかなり創作性の強い著作のため真偽のほどは疑わしい。
因みに著者の大久保忠教(忠世の弟)は
「門外不出であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書かず、子孫だけに向けて記した」
「この本を皆が読まれた時、我が家のことのみを考えて、依怙贔屓を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」
と記しているが、すぐに写本が出回ってしまったとか。
…という事で様々な説が飛び交っている信康自刃事件の真相。
信康&築山殿が武田と内通説
信康素行不良説
浜松派・岡崎派による派閥抗争説
信長の嫉妬説
家康・信康親子不仲説
等々…まだまだあるはず。
以上、二俣城でした。
続いてこちら、清瀧寺
前述した松平信康が祀られているのがこの神社。
こちらは隣接する諏訪神社の庭園
その筋には有名な二俣城の井戸櫓が
復元された井戸櫓
岩盤の上に築かれた二股城には井戸が無く、この櫓に釣瓶を設けて天竜川の水を汲んでいたそう。
二俣城の戦いの際に武田軍がこれを発見し、天竜川上流から大量の筏を流して井戸櫓を破壊。
水を絶たれた徳川軍は降伏・開城したというもの。
清瀧寺山門
こちらの山門は寛文八年(1668年)の建立。
清瀧寺は天正九年(1581年)信康の廟所として家康によって建立。
家康公御手植の蜜柑の分木
これは駿府城公園にあったお手植えミカンでは。
蜜柑を取らないでください。
駿府城公園には大量に、それこそ腐るほどに地面に転がっていた…
鐘楼
HONDAこと本田技研工業の創業者である本田宗一郎氏は
近隣の二俣尋常高等小学校(現在の二俣小学校)の出身で、
腹が減ったと授業中に教室から抜け出してこの鐘楼に赴き、
正午を知らせる鐘を30分早く突き、持ってきた弁当を食べたというおもしろエピソードが残っている。
しかし、今のHONDAの惨状にはホンダスピリットは何処へ行った!?と言ってやりたくなるわ~…
宗一郎氏が天国で泣いてるぞ!!
二代目 寿昌梅
忠世から五代後の子孫にあたる相模国小田原藩第二代藩主・大久保忠増の室、
寿昌院慈岳元長尼が信康を追悼してお手植えしたと伝わる梅の木。
筆塚
その名の通り使いふるした筆を供養するためのもの。
たぶん徳川家とは関係ないと思われる。
こちらが本堂
更に奥へ進んでこちら
信康廟
だが、ここから立ち入り禁止の為これ以上近寄れず…
ズーム
これ、扉の奥にも更に建物の屋根らしきものが見えるんだが…
入口のすぐ先には小さな墓が。
左から
吉良於初の墓(信康自刃の際に殉死)
大久保七朗右衛門忠世の墓(大久保家の菩提寺は小田原にあるので慰霊塔と思われる)
中根平左衛門正照の墓(三方原の戦いで討死)
青木又四朗吉継の墓(三方ヶ原の戦いで討死)
冊の隙間から撮りましたw
お隣の諏訪神社
これはあれか。諏訪大社の分社ですね。
祭神はタケミナカタなので入らないでおくw
※タケミナカタは我が氏神であるタケミカヅチの因縁の相手である。
以上、清瀧寺でした。
近場には鳥羽山城跡もあったそうなんだけど、ついでに寄ればよかったかも。
道中、デカイ敷地になんか見覚えのあるロゴが…と思ったらなんとENKEI本社。
因みにENKEIとは創業時の社名である「遠州軽合金株式会社」の略だそうです。
RAYS、ENKEI、WORKが日本三大アルミホイールメーカーと呼ばれる。
どれも履いたことないんだよなぁ…w
しばらく走って掛川市へ。
本日の夕食
前回の旅行では待ち時間が長くて断念したさわやかハンバーグ。
少し早めに入ったら余裕で座れました。
それでは、初日から夜の街を徘徊と行きましょうか。
城へ向かう途中に見つけた山内一豊と千代。
城の外堀の役目だった逆川
前回は裏側から入ったので今回は表側から入ろうと思ったのですが…
通路を一本間違えて城山沿いを歩くことに…
わざわざ城山を2/3周し、結局裏側から入るw
正面に天守、左に二の丸御殿。
天守曲輪の下から
今年(2024年)で再建30周年記念だそうで、その一環なのかLEDで電飾されてました。
四足門前
本丸への虎口
本丸
前回は掛川に宿泊していないのでライトアップは今回が初なんですよね。
当然、閉まってるだろうけど折角なので上る
階段途中から本丸を見下ろす
階段途中から天守の眺め
天守曲輪前から
天守曲輪前からの眺め
ここ、ライトアップの直撃コースだったり…
眩しくて足元見えんわw
本丸へ戻り
二の丸からの天守
二の丸御殿
当時の掛川城模型
四足門前からの天守
四足門裏側
四足門表側
これ、もう少し下がると…
天守が入る
更に下がると…
太鼓櫓も入る。
逆川沿いを歩き
こちら側は微妙に石垣が残ってますね。
大手門へ。
こちらは 1995年に再建されたものです。
なんだよ。すぐじゃないかw
前回は結構歩くと言われて大手門前駐車場に停めたものを
わざわざ城の裏駐車場へ移動したというのに。
大手門の脇から天守も見える
前回は門の先へ行ってないんですよね。
番所
こちらは嘉永七年(1854年)の大地震で倒壊後に安政六年(1859年)に再建されたもの。
左から大手門、番所、三光稲荷大明神
再び逆川沿いを歩き
また城の付近に出るw
閉まってるけど二の丸御殿前
御殿から道を挟んだ隣には
暗くてわからんけどハス池だそうです。
道なりに歩くと再び大手門前に出るとw
周辺一周して満足したのでホテルへ戻ります。
明日は朝から城攻めじゃーーーーー
続く。











































































































