一夜明けまして今回から二日目。
続・掛川市。
リアルタイム旅行記。
掛川城へ行く前に…
前回から気になってた十九首塚へ。
この二股に分かれる川の右が掛川城から続く逆川、左が小川(後述)
十九首塚
こちらは日本全国に伝わる平将門首塚伝説の一つで、
将門と家臣十八名の首級がこの地に葬られたというもの。
これ、前にも書いたと思いますが…
天慶三年(940年)我が御先祖である藤原秀郷が将門を討った後、
逆賊の首を京へ持ち込むなと朝廷の勅使がこの地へ赴いたとされ、
小川(別名:血洗い川)で首を洗い、橋へ懸けて首の検視が行われたという伝説があり、
橋に首級を懸けた→首懸け川→掛川
地名の由来になったという説もある。
そして、検視が済むと勅使は将門らの首は捨て置けと命じるが、秀郷は激怒。
「逆臣といえど、死者に鞭打つは非礼。」としてこの地へ手厚く葬ったと伝わります。
京の高貴かぶれなんかよりも坂東の田舎武者の方がずっと人間できてるわというお話。
そもそも、不正を正す将門に対して源経基らが逆恨みからそれを謀反と密告したが為の逆臣扱い。
秀郷も将門の人柄に対するリスペクトの気持ちがあったんだと思う。
乱に関わった人物たちの因果は後代にも続き…
■平将門の乱(935年~940年)
平将門(平高望の孫)→乱の中心人物、逆恨みから反逆者扱いされてしまう。
藤原秀郷(秀郷流藤原氏の祖)→将門を討ち取り、地方の田舎武者から鎮守府将軍へ大出世。
平国香(平高望の子、将門の伯父)→将門と敵対する事となり、戦死。
平貞盛(平高望の孫、将門とは従兄弟)→国香の嫡子、秀郷らと将門の乱を鎮圧。
源経基(清和源氏の祖)→京へ逃げ帰り将門らが謀反と密告。
■平忠常の乱(1028~1031年)
平忠常(高望の曾孫、将門の叔父の孫)→乱の中心人物。安房国司を攻め乱の発端になる。
平直方(高望の玄孫、貞盛の孫)→忠常討伐のため派遣されるが鎮圧に失敗。
源頼信(経基の孫)→直方に代わり討伐へ派遣され、乱を鎮める。
源頼義(経基の曾孫)→頼信の嫡子、父と共に討伐へ派遣される。
藤原頼遠(秀郷の玄孫)→乱に関わっていた可能性が高い?
■前九年の役(1050年~1062年)
源頼義(経基の曾孫)→陸奥守に就任し、清原氏と組み安倍氏を滅亡させる。
源義家(経基の玄孫)→頼信の嫡子、父と共に安倍氏討伐に出陣する。
藤原経清(秀郷から五代、頼遠の子)→安倍氏側につくが敗北し斬首。
■後三年の役(1083年~1087年)
藤原清衡(秀郷から六代、経清の子)→清原氏の内紛に勝利。奥州藤原氏の祖となる。
源義家(経基の玄孫)→陸奥守に就任し、清原氏の内紛を鎮圧。
■平治の乱(1160年)
平清盛(高望から八代、貞盛から六代)六波羅合戦にて出陣。義朝らを撃退する。
平重盛(高望から九代、貞盛から七代)清盛の嫡子。父とともに六波羅合戦に出陣。
源義朝(経基から七代、義家の曾孫)三条殿を襲撃し、乱の発端となる。敗走中に殺される。
源頼朝(経基から八代、義家の玄孫)義朝の三男。父や兄と共に六波羅合戦に出陣する。
■壇ノ浦の戦い(1185年)
源範頼(経基から八代、義家の玄孫)義朝六男。勝利するも後に頼朝から疑われ死罪。
源義経(経基から八代、義家の玄孫)義朝九男。勝利に貢献するも頼朝と対立し殺される。
平宗盛(高望から九代、貞盛から七代)清盛三男。捕らわれ後に死罪。平家は滅亡する。
平知盛(高望から九代、貞盛から七代)清盛四男。敗北を悟り自害。
■奥州合戦(1189年)
源頼朝(経基から八代、義家の玄孫)→義経を匿ったとして平泉を攻める。
藤原泰衡(秀郷から九代、清衡の曾孫)→逃亡先で殺され、奥州藤原氏は滅亡する。
兄弟殺しも辞さない頼朝だったが
皮肉にも実子の頼家・実朝ともに殺され、鎌倉将軍家の血統は断絶する。
藤原秀郷、平貞盛、源経基に始まり、その後裔に到ること約150年…
秀郷流、平家、清和源氏の因果は巡りに巡る…
中央の五輪塔が相馬小太郎将門(平将門)
周囲の十八基は近年の再建です。
昔は十九基すべて揃っていたそうですが、時代とともに数を減らして行き
中央の将門のものを残すだけになってしまったとか。
御厨三郎将頼(平将頼)
大葦原四郎将平(平将平)
大葦原五郎将為(平将為)
大葦原六郎将武(平将武)
御厨別当多治経明
御厨別当文屋好兼
藤原玄茂
藤原玄明
坂上逐高
堀江入道周金
東三郎氏敦
大須賀平内時茂
長挟七郎保時
隅田九郎将貞
隅田忠次直文
鷲沼太郎光武
鷲沼庄司光則
武藤五郎貞世
こちら、現在は新しい橋が架かっていますが
首を懸けたと伝わる橋が架かっていたのがここ。
その名も将門橋。
橋の上から
左が掛川城へと続く逆川、右上の分岐が小川(血洗い川)へと繋がるそう。
十九首塚にはもう一つの説がありまして…
つーか、これも前に書いたと思うんだけど
今川氏真から松平元康(家康)との内通の疑いをかけられた井伊直親(直政の実父)が
無実証明のため駿府へ向かう途中、今川重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害された地とも伝わる。
なので、あれは平将門一党ではなく、井伊直親とその従者の霊を祀っているのではないかという説もある。
この朝比奈泰朝はあまり有名な武将ではありませんが、
今川滅亡の最後まで氏真に付き従った真の忠臣でして、好きな武将の一人なんですよね。
好きな武将の実父が好きな武将の手の者によって殺害されたという何とも複雑な気分なのである…
以上、十九首塚でした。
続いて掛川城…
と行きたいところですが、まだ9時前で天守は開いておらず。
時間つぶしがてら周辺を散策します。
竹の丸。
前回は気付かず素通りしていたと勘違いしていたが、
実は城郭入口とは別方向にありまして、単に視界に入る前に道を曲がっていただけだったというw
竹の丸は山内一豊入封後の拡張工事で造成された曲輪で、
家老屋敷等、重臣の居住区だったそうです。
現在は江戸時代の豪商・松本家の本宅が現存していますが
明治36年築なので当時のものではないんですよね…
道なりに少し歩くと
なんと掛川古城。
後で時間があれば行こうと思っていたんですが、
先に来てしまったのでそのまま行ってしまおう。
こちらが本曲輪、子角山(別名:天王山)
掛川古城は
文明(1469年~1487年)期
遠江侵攻の前線拠点として今川義忠が重臣の朝比奈泰熙へ命じて築城されたのがはじまり。
永正十年(1513年)朝比奈泰能(泰熙嫡子)の代に現在の龍頭山へ新城が築かれ、
こちらの古城は出城としてそのまま機能していたそうです。
永禄十一年(1568年)家康の掛川城攻めが始まり、攻略の足掛りとするため子角山を奪取、掛川城攻略の本陣地となります。
翌、永禄十一年(1569年)徳川・今川の和議が成立し、掛川城は開城。子角山の古城は廃城となります。
龍華院大猷院霊屋
明暦元年(1655年)、掛川藩主・北条氏重によって建立された三代将軍家光の霊廟。
現在のこちらは文政五年(1822年)五代藩主・太田資始による再建。
これ、ゲート普通に開いてたんだけど入って良いんだよね…?
かなり年季は入っていますが
やはり東照宮の意匠になってます。
所々、補修した様な跡が見られますが大規模な補修は受けていないと思われる。
久能山東照宮も補修を受けていなければこんな感じになっていったんだろうなぁと思いながら眺める。
周囲をグルリと
本曲輪東側の土塁跡
北側の土塁跡
南側の土塁を下から
本曲輪の真下には小学校のグラウンド
見るからに曲輪ですよねw
館跡があったと推測されるとか。
本曲輪からだと木が邪魔で見えないのですが
古城入口の坂道からだと遮蔽物が無くなり天守が見える。
以上、掛川古城でした。
本曲輪しか残っていないと思いきや二の曲輪も残っており、
本曲輪と二の曲輪を隔てる大堀切も残ってるんだとか。
気付かず見逃してましたがね。ええ。はい。
9時を周りましたので掛川城へ。
こちらは2021年時のもの。
そういえばこの時も天気が微妙な小雨で、今回もあまり天気がよろしくない…
二の丸の真下から天守
十露盤堀
十露盤堀からの天守
一度外へ出まして
誰も居ない一瞬の隙を狙って四足門から天守。
2021年時は門を潜ってないので当然看板も撮っていないとw
門を潜って迂回して帰ろうとしたら却下されてなぁ…w
これが後々大きな後悔となる…
昨夜狙ったアングルで。
そして太鼓櫓入れるの忘れるとw
四足門をくぐり
本丸への虎口
本丸
真下からの天守
ここでしばらく雷神様とトシゾー教授待っていたのですが来ないこと来ないこと…
案の定、道に迷って御殿の方へ行ったり、門の外へ出たり…
やはり目を離すと危険な様だ…
では、天守丸へ登ります。
前回の記事とか最近の記事で「天守曲輪」とか書いてたけど
正確には「天守丸」だそうです。
折角なので帰りはこの帯曲輪を通ってみようと思っていたが…
帰る頃にはすっかり頭から抜けていたのであるw
天守下門跡
天正十八年(1590年)山内一豊によって近世城郭へと大改修。
天守が建てられたのもこの時期ですが
安政元年(1854年)末の安政東海地震にて倒壊。
二ノ丸御殿は再建されるも天守は再建されなかったそうです。
現在の天守は1994年の再建ですが、
日本初の木造復元天守で史実に基づいて忠実に復元されています。
曲輪内部からだと近すぎて天守全体が入らなかったのですが
0.5倍モードが使えるAIカメラはこういう場合に役に立つ。
変なパース付くけど…
霧吹き井戸
一説によるとこの天守丸(当時は本丸)の前で徳川軍を食い止めたそうで
五ヵ月にも及ぶ籠城に耐えたのは主郭にこの井戸があったからだと思う。
23年の大河、どうする家康の掛川城攻めの回でも
この天守丸で戦っている様な描写でした。
しかし…朝比奈泰朝は登場せず、氏真が直接指揮を執っていたという…
実際は駿府を逃れてきた氏真を泰朝が保護。
泰朝が指揮を執り、徳川の猛攻から主君を護り抜いたというのが史実。
水が入ってるのでやはり底は見えなかった。
真下から
内部へ。
山内一豊像
ルートに若干の変更があり先に二階へ上がります。
二階
再建ではありますが、
木造で史実に忠実な再建なのでやはり良い。
高知城天守(現存)の鯱にならった複製の鯱
二階~三階の階段途中の間
三階
当時の絵図
窓から西側
南西側
さっきの十九首塚は川の先。
さすがに見えませんが…
南側
丁度、本丸の真上
南東側
太鼓櫓、四足門、奥には大手門が見える。
東側
二の丸の真上、二ノ丸御殿が見える。
北東側
掛川古城
そして、奥に見える山影はマウント・フジです。
掛川古城に満足したのか北側撮ってませんでしたw
階段からの一階。
掛川城天守は現存天守も顔負けの急階段なんですが、
鍛え抜かれた我が体幹をもってすれば、手すりなど使わずとも
更には撮影しながら降りるのも余裕なのですよ(危険なので真似しないでくださいw)
一階
どうやら展示物に変わりはない模様。
軍扇
鞍…の一部
具足と頭形兜
鳥伏間
以上、掛川城天守でした。
次回は御殿。
しかし、世間的には山内一豊なんだろうけど
自分的には朝比奈泰朝なんですよねぇ…























































































