今回から四日目。
こちらがリアルタイム旅行記。
本日は徳川所縁の寺社巡り。
最初にこちら
火防鎮護 秋葉神社
キモヲタのサブカルの聖地を連想する名前だが、その通りでこれが名前の由来。
明治2年、東京都相生町の大火によってできた火除地に鎮火社が建立されるが、地元人はこれを秋葉社と誤解。
この火除地は秋葉の原や秋葉っ原と呼ばれるようになり、後に秋葉原という地名になったそうな。
昨夜、ホテルで観光マップ見てたら発見したのですが、
井伊の赤備え発祥の地なんだそうです。
近場且つ、目的地への道中ということで急遽立ち寄ることにしました。
境内へ
時間が早く、社務所まだ開いてませぬ。
浜松秋葉神社は元亀元年(1570年)、
岡崎城から浜松城へ本拠を移した徳川家康によって北遠の秋葉山を勧請して創建。
後の天正十年(1582年)、
甲州征伐で武田氏が滅亡すると家康は旧武田家臣団を井伊直政へ預け、
徳川への忠誠を神仏へ誓わせる起請文(信玄衆誓詞)を書かせ、この秋葉神社へ奉納させたそうです。
そして、家康の命により武田の赤備えに倣い井伊隊の具足は赤で統一。
ここに井伊の赤備えが誕生したってところか。
拝殿
祭神は迦具土神(カグツチノカミ)
瀬織津比咩命(セオリツヒメノミコト)、速秋津比咩命(ヤアキツヒメノミコト)
気吹戸主命(イブキドヌシノミコト)、速佐須良比咩命(ヤサスラヒメノミコト)
古事記の説を取るとカグツチはタケミカヅチの父とされ、この私にも関係のある神様となる。
拝殿内
廻廊
本殿
残念ながら現存する建物はありません。
こちらの灯篭は
右の二つが享保十五年(1730年)、松平豊後守資訓(三州吉田城主)の奉納。
左の二つが延亨四年(1747年)、青山因幡守忠朝(丹波国亀山城主)の奉納。
以上、浜松秋葉神社でした。
続いてこちら
高松山 西来院
正長元年(1428年)、月窓義運禅師によって開創。
本堂
住職殿のありがたいお話を聞き
こちらへ
家康の正室・築山御前の霊廟
こちらに書いたので詳しくは割愛しますが
築山御前処刑の理由は
徳姫に関する讒言を信康にした説、武田との内通説、唐人医師・減敬との密通説等。
築山御前月窟廟
内部
近年よく見られる「瀬名姫」の名は一時資料に記述はなく、創作性が強いそうです。
この時代の実名忌避文化は女性に対しては更に厳しく(他人の妻を名前で呼ぶのは無礼的な)
実名が記録に残っていないことは珍しくなかったり。
続いてこちら
松平源三郎康俊墓所
松平康俊(旧名:久松勝俊)は於大の方と久松俊勝の間に生まれた子(久松三兄弟)で家康の異父弟にあたります。
大河・どうする家康にも登場したので知名度は上がったか。
家康からは同姓の兄弟に準ずるとして松平の名字と諱の一字を与え、康俊と改めさせています。
永禄六年(1563年)、家康の命によって今川氏真の人質に。
永禄十一年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻により、今川氏は滅亡。この際に甲斐へ送られます。
元亀元年(1570年)、家康の計略によって甲斐から脱走を図り三河へ帰還するも、
山岳地帯の大雪の中を進んだことが原因で凍傷にかかり足の指をすべて失ってしまいます。
天正十一年(1583年)、五ヶ国の大大名となった家康より駿河国の久能城を与えられますが、
足の障害のためか病気がちとなり三年後の天正十四年(1587年)に亡くなっています。
こちらは詳細不明ですが見るからに古い墓石なので久松松平家関係でしょうかね。
以上、高松山 西来院でした。
続いて太刀洗の池へ向かったのですが、
現在は埋め立てられてしまった事を現地の工事現場のおっちゃんに聞いて知るのだった…
太刀洗とは家康の家臣・野中重政が築山御前を斬った刀を洗ったと伝わる池。
道中、浜松城が見えたので
この位置だと恥ずかしい余り石垣も目立たず…
これにて、さらば静岡県。
なんか近い将来また来そうな気がするけどw
しばらく走りまして愛知県岡崎市へ。
続いてこちら
土呂殿 本宗寺
応仁二年(1468年)、蓮如上人によって創建。
創建当時は土呂(現在の福岡町)にあったそうです。
本堂
鐘楼と十三重石塔
本宗寺は本願寺派の寺院のため、三河一向一揆の際に焼失。
家康は国内宗門御停止を命じ、三河国は本願寺教団禁制の地となりますが、
天正十三年(1585年)、石川家成(数正の叔父)の母で家康の叔母にもあたる妙西尼の嘆願により、
宗門再興の赦免状が発せられ、本宗寺は復興を許されています。
後の慶長六年(1611年)に現在のこの地へ移転したそうです。
十三重石塔
樹齢三百年とされる本宗寺の大松
高さ13.0m、幹周3.3m、根周4.3m、枝張り23.0mだそうです。
支え木に加え、
井戸の屋根が巨大な枝を支えている状態に…
本堂の脇には
石川数正墓所
中央が石川数正墓所、左が正室墓所、右が供養塔
家康の関東入封の際に秀吉より松本を与えられおり、松本の正行寺、兎川寺にも数正の墓所が存在する。
はたして何処が本物か(正行寺の気がする…)
数正出奔の理由もまた確実性のある一時資料が見つかっておらず、現在も多くの謎を残しています。
・秀吉の器量に惚れ込み自ら降った説
・秀吉の恩賞に篭絡された説(秀吉の得意技でナンバー2に権力を与えて主君の地位と並ばせる)
・秀吉との内通を疑われ行き場を失った説
・秀吉に付けば徳川との戦回避の密約があった説
・秀吉との交渉役だった数正は主戦と和睦の板挟みに合い主戦論を放棄させるため降った説(大河はこの説に近かった)
・家康と示し合わせ、降ったフリをしたスパイ説
・数正は信康の後見人だったため切腹事件で家康と不仲になった説
・切腹事件により主導権が岡崎衆から浜松衆へと移り立場をなくしたため説
等々
近年では徳川家を滅ぼさぬ様、主戦論を放棄させるために降った説が有力の様です。
以上、土呂殿 本宗寺でした。
続いて若宮八幡宮
拝殿
主祭神は松平三郎信康、仁徳天皇
本殿
信康切腹事件後、岡崎城内で怪異現象が頻繁に発生したため、
岡崎城代の石川数正が天正八年(1580年)、この地に供養塔の首塚を建てたと伝わります。
こちらが首塚ですが、門が閉じており近寄れず…
隙間からズームで
なんとか岡崎三郎信康公御首塚の字が読める
さすがに五輪塔の文字までは読めず…
以上、若宮八幡宮でした。
続いて八柱神社
熊野権現(五男三女神)を主祭神として祀っていることから八柱神社なんだそうです。
天正七年(1579年)に築山御前の御霊を祀るため、祐傳寺に首を埋葬。
後の正保三年(1646年)にこの地へ改葬されたそうです。
築山御前首塚
こちらの方が立派なので首塚と勘違いしてる人がかなり多い様ですが
見るからに新しく、これは近年に建てられた慰霊塔です。
こちらが本物の首塚。
慰霊塔にだけ手を合わせてこちらをスルーしていく人が多いらしい…
そして、改葬前の祐傳寺にも首塚が残されているそうだが、
そちらは首塚跡なんじゃないかなと。
しかし、大河・どうるす家康の築山御前は聖女として描かれ過ぎだったと思うw
あの時代に例の謀(はかりごと)の理屈が通れば応仁の乱も起こらなかったわけであって、見ていて少々厳しいものがあった。
瀬名=悪女とされたのは江戸時代以降だとしても、気位の高い女性だったとは思うんですよね。
事件以降、家康は正室を置かなかった事から考えてもやはり築山御前には手を焼いており、さすがに懲りていたんじゃないかと。
以上、八柱神社でした。
続いて大樹寺
文明七年(1475年)、松平親忠によって開基、浄土宗の僧侶・勢誉愚底が開山。
しかし、愚底って凄い名前だな…
大樹寺の寺号も愚底によるものだそうですが、
松平氏から将軍(大樹は征夷大将軍の唐名)が誕生することを祈願して命名されたという説がある。
これが本当だとすれば後にその祈願が見事叶うことになる。
電線が邪魔だったのであおりアングルから、現存の大樹寺三門。
寛永十八年(1641年)建立の県指定有形文化財。
境内へ。
鐘楼
こちらも現存建築で寛永十八年(1641年)建立。
本堂
こちらは後ほど
まずはこちらへ
変わった石灯篭と思いきや
どうやら石像アートの模様
これらは徳川とは関係ないですねw
その奥には
大樹時多宝塔
天文四年(1535年)、松平清康によって建立され、
国指定重要文化財となっています。
曇り空の多い今回の旅行では数少ない青空の見える背景ですw
更に奥へ進み
史跡 松平八代墓
初代・親氏から八代・広忠まで松平氏歴代当主の墓所。
桶狭間の戦いで岡崎へ敗走した元康(後の家康)が大樹寺へ入った際、
寺は敵に包囲され、この歴代当主の墓の前で自害を試みますが
後に大樹寺十三代住職となる登誉天室上人が元康へ
「厭離穢土欣求浄土(汚れた乱世を終わらせ太平の世を目指すべし的な意味)」の教えを説き、
切腹を思いとどまらせた元康再起の場として歴史的にも非常に大きな意味を持つ。
初代 松平親氏
二代 松平泰親
三代 松平信光
四代 松平親忠
五代 松平長親
六代 松平信忠
七代 松平清康
八代 松平広忠
九代 徳川家康
こちらは昭和に建てられたものだそうです。
久能山東照宮の墓と同じ形状ですよねこれ。
葵紋
家康側から
親氏側から
以上、松平八代墓でした。
反対方向にも何かある…
岩津松平家供養塔
岩津松平家が西三河地方に進出した松平氏の嫡流だったそうですが、
今川氏の攻撃を受けて衰退、庶流の安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化。
後の徳川将軍家となります。
フェンスの奥は本堂の裏側でしょうかね?
無縫塔なので歴代住職の墓所と思われる。
豊国稲荷
家康公お手植えの椎の木
本堂へ。
本堂内
内陣
右余間
左余間
江戸時代の住職用の駕籠
これ以降は撮影禁止のため、ここまで。
徳川歴代将軍の位牌(身長と同じ高さ)等が展示されており、かなりの見応えでした。
以上、大樹寺でした。














































































































