備中松山城を後にし、続いて城下町を歩きます。
石火矢町ふるさと村の駐車場。
土塀で囲まれているなんとも風情ある駐車場。
門
こちらにも門
街道側から
武家屋敷 旧折井家
天保年間(1831年〜1845年)築、折井家は200石ほどの藩の馬回り役を勤めた家だそうです。
他も見て周ってから入ろうかと思ったんですが結局入らなかったんですよねぇ…
武家屋敷通り
本町通り
池上邸
享保年間(1716年~1736年)築の小間物屋、替商、高瀬舟の船主、醤油製造で財をなした豪商の家だそうです。
現在は高梁市商家資料館と休憩所になっています。
続いて、阿井の渡し跡の山中鹿介幸盛墓所。
先週の豊臣兄弟が丁度ここだったという非常にタイムリーなネタ。
まあ、ナレ死でしたがねw
鹿介の通称の方が圧倒的に有名なので創作物ではほぼこちらの名で呼ばれるんですが
幸盛の諱の方で呼ばれていたのは珍しい。
遺体は別の場所(後述)に埋葬されているので厳密には墓所というか慰霊塔。
鹿之介になっている…
以前は鹿介とか鹿之介とか鹿助とか鹿之助とか色々と表記ゆれが多かったが
現在では鹿介を正として統一されています。
こっちも山中鹿之介になっているw
高梁川
上月城の戦いで城兵の助命を条件に尼子勝久・氏久・通久らは自刃し、降伏・開城。
尼子再興軍の中心人物だった鹿介は捕虜となり備中松山城へと連行される事になりますが…
阿井の渡し(高梁川・成羽川の合流地点付近)で
アホの輝元輝元様の刺客・福間元明に不意を突かれて殺害されてしまいます。
要は山中鹿介墓所というより山中鹿介殺害現場。
この辺りが現場だろか…?
降伏を条件に城主が自刃すれば家臣一同は助命しなければならないというのが戦国時代暗黙のルール。
毛利からすれば厄介者の鹿介だが、毛利の家名に傷が付くとして表立って処刑するわけにはいかず
この様な方法を選んだんでしょうね。
本日登場するらしい今回のアホの輝元輝元様はどうやら有能な人物に描かれるっぽいですよ。
淀殿にビンタ張られる様な感じではないらしいw
手前に見える城山っぽいのは神崎神社だそうです。
対岸の奥には広瀬固屋城跡があるそうだが、どうも右端の見切れてるのがそれっぽい…?
山中鹿介胴墓
高梁川に捨て置かれた首のない鹿介の遺体ですが、
これを不憫に思った観泉寺の珊牛和尚が自身の寺へと運び込み荼毘に付した後、
古墳時代の横穴式石棺に収め、赤羽根の石田畑へ葬った(仮埋葬だったそう)という書状が残っているとか。
それから完全に忘れ去られてしまったのか明治20年頃、石田畑から石棺が出土。
石棺を開くと頭蓋骨の無い遺骨が見つかり、上記の書状から山中鹿介の遺骨と特定。
実に300年以上もの間、石棺に仮埋葬されたまま安置されていたという。
明治35年、地元有志の協力のもとこちらの墓所が建立され、正式に埋葬されたそうです。
鹿介の首は広島県福山市の鞆の浦の足利義昭の元へ届けられ首実験をしたと伝わっており、
首は同地へ葬られて現在は首塚が建っています。
本日の昼食
以上、高梁市でした。
休憩中のSAにて展望台みたいなのが
色々見てきたので櫓か三重塔に見えて来るw
一路、備前市まで。
大滝山福生寺
あれか…
結構上にあるなぁ…
三重塔道
さて、行きますか。本日二度目の山登りw
今回も何かあったらアレなのでしんがりを務める。
中腹あたり
竹木がすごいことになっている…
到着。
備中松山城に比べればどうという事はないが、皆さま既に疲れ切っている様ですw
大滝山三重塔
困ったことに足場が狭くてどうしても下からの接写になってしまう…
0.5倍モードでこれ。
伝・嘉吉元年(1441年)建立の重要文化財。
足利義教の命によって建立。
仕方ないので近場から接写しまくる。
等倍だとここまで近い。
足下には落ちた瓦が。
ダメだ見辛いわー!!ということで丘の上に登ります。
こっち側には立ち入り禁止のロープないからええやろの法則。
一地番見える位置が丁度逆光くらうw
少し隠れるけど全体。
そして、右手前に謎の瓦の山がある…
足下に転がってたのはこれが落ちたんだろか…?
立ち入り禁止のベンチ
うんw確かにこれは非常に危ないわw
下山して境内へ。
大師堂
天和二年(1682年)再建の重要文化財
本堂
天和二年(1682年)再建の重要文化財
岡山藩二代藩主・池田綱政が大願主となって再建されたそうです。
福生寺は天平勝宝六年(754年)鑑真の開基で創建されたと伝わり、
菅原道真が編纂した類聚国史には法隆寺や唐招提寺と並んで記載されてそうで、格式の高さが伺える。
以上、大滝山福生寺でした。
中途半端になるので今回はここまで。



















































