今回より五日目。
こちらがリアルタイム旅行記
本日は倉敷市から高梁市まで。
道中、城山みたいなのがあると思ったら
備中福山城跡だそうです。
建武二年(1335年)の築城とかなり古い。
翌、建武三年(延元元年・1336年)の福山合戦にて落城、そのまま顧みられることなく廃城になった様です。
登城が困難なので半ば諦めていたが…
雷神様とトシゾー教授には頑張ってもらおうという事で遂に来てしまった備中松山城。
標高487mと今まで登ってきた山城でもダントツで標高が高い。
というか山城では日本一高いw
城の名にもなっている臥牛山(松山)とは
大松山、小松山、天神丸山、前山(まえやま)の四山の総称だそうです。
小松山に本丸・二の丸・三の丸が置かれ、近世城郭の遺構と江戸初期に建てられた天守が現存しています。
大松山、天神の丸、前山にも僅かながらの遺構が残っているとか。
松山城という名の城が日本全国に11城(もっとあるかもしれない)もあり、
単に松山城というと昨日の伊予松山城のことを指し、色々と紛らわしい。
高梁城の別名も存在するが、これは高梁市が由来なので何かしっくりこない。
臥牛山城の方が良いんじゃね?と思ったりw
ある意味、城よりも有名になってしまった猫城主さんじゅーろー
さんじゅーろー目当てで来る人も多いんだとか。
さすがに標高487mを一から踏破する気はないので
ふいご峠まではシャトルバスで移動。
臥牛山の8合目付近と、約290m〜298mくらいまで登れるそうです。
ふいご峠の周辺案内図。
道が二つに分岐しており、何も疑わずに登山道へ入った(主に不傳流の忍者が率先してw)んだけどこれがミスだった…
やはりよく見てから進むべきですね。
では、登りましょうか(何故か最初は下る)
残り180~190mくらいだと思うので佐和山城や月山富田城よりは少し短いはずだが、
山道は結構なものだと思うので今回は雷神様とトシゾー教授にペースを合わせる。
斥候のため先を往く忍者
雷神様とトシゾー教授が早くも辛そうw
城主さまのありがたい心得が要所要所に建っていますw
ここにもありがたい登城心得
ありがたい登城心得
やばいそろそろ汗だくになってきたぞ…
こちらは石垣の遺構ではなく自然の岩肌。
結構上ってきたと思うんだけどまだ200mか…
ふいご峠から山頂まで高さ200mほどだが、距離にすると700mほどあるそうです。
ありがたい登城心得
頭上に明らかに現代に作られた舗装路が…
これはさっきの分岐路か…?
同じ方向向いてるっぽいけど何処まで続いてるんだろか…
石垣の遺構っぽいのが見えてきました。
これはおそらく崩落した石垣。
これ以上崩れないようにネットで抑えているんでしょうね。
中太鼓の丸跡へ着。
ほとんど崩れてしまってるけど遂に石垣が。
こちら、一見すると白い塗料で描かれた天守の様に見えるんだけど…
よく見ると剥がし絵になってませんかこれ?
中太鼓の丸の説明板
山麓の御根小屋(御殿と武家屋敷群)から山頂の天守の間に設けられた中継地点で
前山の山頂にある下太鼓櫓(ふいご峠のちょい下らしい)と合わせて太鼓の合図で連絡を取り合っていたそうです。
戦国の世ならば山城は当たり前だったけど、太平の世には不便すぎる山城。
江戸時代以降も藩庁として使われた山城は本丸のあった山頂は廃城になり、
山麓の二の丸を本丸に見立てて使われることが当たり前のようになったのですが、
備中松山城は山頂部もそのまま使い続けられた非常に珍しい例。
まあ、不便過ぎるので麓の御根小屋で藩の政務を行っていたそうですが。
真上に健全な石垣。
こちらが中太鼓櫓跡だそうです。
ありがたい登城心得
まだ中間かぁ…
中太鼓櫓跡を上から
そういえば上に登るの忘れてた…
ここから高梁市が一望できるそうですよ。
中太鼓の丸上の段とでも言うのか
いかにも中世城郭な曲輪で米子城や高天神城を思い出す。
堀切跡
中太鼓の丸跡で小休止できたが、雷神様とトシゾー教授が既に体力の限界ときている…
万が一の事があったはマズイので、ここからしんがりを務めいたす。
櫓台跡か?
石垣が崩れた痕跡あり。
巨大堀切跡
下に舗装路が見えるんだけど、さっきの分岐路では?
まだ続いてるのか…
半分を過ぎたけど
まだ300mか…
堀切跡
やはり下に舗装路が見える…
巨大石
石垣の切り出し使われたものなんでしょうかね。
その脇を見ると…
なんか階段がある…
おや…?
あ、帰り道?
これってもしや、その階段から降りて舗装路へ出るんじゃないのこれ?
つまりは逆も然り…
ふいご峠で登山道と舗装路に分岐するがどちらからでも山頂へ登れますよという事だったw
まあ…中太鼓櫓跡や堀切の遺構が見れたので良しとしよう。
そして…
前を見ると遂に主郭の石垣が見えた。
城主さまからも歓迎されてます。
ついに大手門跡へ着。
そして既に限界を超えている雷神様とトシゾー教授。
真田家とは縁も所縁もありませんが真田の居城のイメージに近いということで
真田丸のOPに備中松山城が使われたそうなんですよね。
そしてこちらが備中松山城名物、大手門脇の岩盤と石垣
自然の地形を上手く利用し、岩盤の上に石垣が積まれているという、まさに圧巻の一言。
この凄さは写真じゃほとんど伝わらんなぁ…
しかし、巨岩の割れ目から混入した樹木が内部で成長して割れ目が次第に大きくなっているそうです。
この影響で上部の石垣が変形しつつあるそうで、将来的に崩落が危ぶまれているとか。
大手門跡の虎口
大手門の桝形
桝形内には足軽箱番所跡
大手櫓跡
そして、三の平櫓東土塀は現存建築で国の重要文化財に指定されています。
三の丸曲輪
今立っている辺りが足軽番所跡で、
手前の石垣が出てる箇所が上番所跡だそうです。
三の丸から大手門跡
大手門跡、三の平櫓跡、三の平櫓東土塀
ここの石垣を見事ですよね。
一段上の曲輪が厩曲輪、二段目が武者走り(?)、三段目が帯曲輪、最上段が二の丸。
王手へ戻り
上の曲輪へ。
直線的な道が多い近世城郭に対して、この弓なりの道がいかにも中世城郭を改修しましたな感じで良し。
黒門跡
四の手櫓跡
上から四の手櫓跡
その上には御膳棚跡
城にありがちな櫓に見せかけたトイレですw
二の丸石垣
厩曲輪跡
その名の通り荷馬をつないでいた曲輪だそうです。
こちらも現存の土塀。
ここにも自然の岩盤の上に積まれた石垣
よく見ると石を切り出した跡が残ってんですよね。
山頂でも石材が採れたので石垣は山中だけで事足りたんでしょうかね。
反対側から
一段上はやはり武者走りだろか。
上から三の丸
王手へ戻り…
あれ?なんか走って来た
猫城主ッ!!
はい、城主さんじゅーろーと対面しました。
正面から撮ろうと思ったら逃げられたw
因みにさんじゅーろーの名は
備中松山藩出身の新撰組七番組組長の谷三十郎供国が由来だそうです。
二の丸
ようやく天守が拝めましたw
山頂の奥まった位置にあるので下からじゃ全く見えないという…
なんかの作業中のようです(よく見ると木の上に登ってる人)
本丸~二の丸間を作業員の方々が忙しなく行き来してましたね。
謎の排水溝?
いや、土蔵?
雪隠
トイレでしたw
ご不浄溜め処でしょうかこれw
手前の櫓が五の平櫓、右奥が六の平櫓。
土塀も含めてこれらは再建です。
本丸。
天守右下の石垣は八の平櫓跡だそうです。
天守は複合式望楼型二重二階。
現存十二天守のひとつで国の重要文化財に指定されています。
パッと三重っぽく見えるが左に出入口の附櫓がある。
天和元年(1681年)に水谷勝宗によって現在の姿になったそうです。
1600年代後期には珍しい望楼型なんですが、
毛利時代から天守は存在していたと考えられており、
慶長5年(1600年)に城代の小堀政次・政一が建造した説が有力だそうです。
この時期ならば望楼型なのも納得。
改修時に天守へと改めたが、もしかすると元々は二重櫓だった様な気もするなぁ…
現存の重文天守で次に国宝になれそうなのはこの備中松山城か丸岡城だと思っている。
しかし、築城年数が正確にわかる証拠がないと国宝登録が難しいそうなんですよね。
松江城がそれだった。
この桶は猫城主の玉座
五の平櫓と南門
復元土塀と
何故かここに立ってる六の平櫓の石柱
は八の平櫓跡の上から
左から五の平櫓、南門、六の平櫓
まさに中世城郭な規模ですよね。
そして天守。
天守の真下にも岩盤があり、その上に石垣を築いている。
因みに天守閣という呼び方は好きじゃない。
これって明治以降に付いた呼び名で
閣はいらねーんだよ閣は。
いざ、天守内へ。
続く。
































































































