続・広島城

 

本朝図鑑網目

 

岡岷山筆 松樹日月図

 

山県二承筆 岩山に紅葉図

 

広島城下絵屏風(複製)

 

学問所や寺子屋で用いられた教科書等

左の掛け軸は「江上吟」頼聿庵筆

 

左から孟子、春草堂詩鈔

 

唐詩選帖

 

左から 算法大全指南車、童訓往来新大成、算改塵劫記

 

扁額「含晩翠書軒」頼聿庵筆

書店の看板だそうです。

 

広島の伝統工芸品

左から銅蟲火鉢、銅蟲水注、牡丹に蜂菓子器(五代一国作)、伝・江波焼大皿

 

明治期に流行したバルーンバックチェアとホールスタンド

 

三階はお待ちかねの武具コーナー。

網代金箔押唐人笠形馬標

こちら浅野幸長の馬印で高さ146cm、周囲59cmという巨大なもの。

以降、浅野家では代々同型の馬印を使用していたそうです。

 

朱塗鎧櫃

こちらは毛利の支藩である徳山藩で用いられたものだそう。

 

左:鉄錆地六十二間筋兜鉢

右:鉄錆地六十二間筋兜

 

茶漆塗六十二間小星兜鉢

元々(室町時代)は鉄錆地だったものを後年(江戸時代?)に漆塗りにされてしまったそうな。

 

紺糸素懸威胴丸

胴丸の歴史は古く平安時代中期頃に誕生。

上級武者が大鎧を着用し、下級武者は胴丸を着用と元々は大鎧の廉価版的な立ち位置だった。

後に戦闘スタイルの変化と共に大鎧は廃れ上級武者も胴丸を着用する様になります。

 

黒葦威腹巻 大袖付

大袖が付いた室町スタイル。

軽装だった胴丸に上級武士が着用する重装バージョンが登場。

胴丸の簡易バージョンとして腹当登場し、そこから更に腹巻へと進化します。

そして腹巻にも上級武士が着用する重装バージョンが登場するという。

廉価版のはずが色々ゴテゴテ付けられて廉価ではなくなってしまうヤツですねw

この後、具足が登場しますがお金の無い国衆や小大名は重装胴丸や重装腹巻を使用する例が多かった。

 

日本刀製作の行程

 

 

こちらは下地研ぎ前の状態

 

こちらは砥石

 

刀装具

左:遠見松図透鐔 無銘

右:輪宝図透鐔 無銘

 

蟷螂の斧図透鐔

こちらは鉄地に金象嵌

 

縁頭鉄元堂尚茂花押在銘銀四分一地金象嵌 聖人の賢者

黒漆でわからんがどうやら銀地っぽい。

 

勝虫図柄縁頭 銘 福山臣中西吉風

こちらは素銅。

 

闘鶏図目貫 銘 一賀(花押)

黒漆塗に金象嵌。材は銅地か?

 

糸巻太刀拵

幕末だそう。

復古刀論の提唱の影響からか幕末の太刀拵えって意外と多いんですよね…

肝心の中身が復古からかけ離れた姿したのばっかだけど…

 

変わり塗鞘打刀拵

写真じゃわからんけど刷毛目調になっている。

 

黒塗大小拵

クソ真面目な黒鞘に金象嵌の家紋入りなので公用拵えですね。

登城の際に差す大小です。

因みに家紋は下がり藤紋(ウチの家紋と一緒)

 

打刀 銘 兼元

浅野幸長が豊臣秀次失脚の際に連座して能登国へ流された際、

それに追従した浅野孫左衛門高勝が拝領された物だそうです。

兼元といえば三本杉が有名なわけですが、三本杉の作風は後代の兼元の物。

これはどう見ても直刃なので初代関の孫六こと二代目兼元か。

金象嵌銘

「此[兼元]甲刕太守浅野幸長公 依讒奏能登在国砌
為後代契約浅野孫左衛門尉賜之 慶長元丙申七月日」

 

古刀が続くのかと思ったら…

 

短刀 銘 播磨守輝廣

29.9cmのギリギリ短刀(29.9cmまでが短刀、30cm~が脇差)

寛永新刀で古刀の作風を僅かに残したギリギリ最後の世代。

 

打刀 銘 防州岩国藩青龍軒盛俊 文久三年癸亥八月日

文久なので新々刀ですね。全く興味なしw

 

太刀 銘 備陽長船士横山加賀介藤原朝臣祐永

應貞永荘右衛門清道需造之 嘉永元年二月日

不動明王 厳島大明神

嘉永なので新々刀期の真っ只中。無駄に長い銘もこの時代の特徴であるw

古一文字を偲んで打たれたそうだが…

一応太刀の姿だけどわざとらしい付け焼き刃文が違和感しかない…

残念ながら一文字派の華やかな刃文はこんなわざとらしい付け焼き刃ではありませぬ。

これも興味なしw

 

打刀 銘 藝州住出雲大掾正光 六十五歳

以石州邑知鋼鐵治之鍛之 慶應二年二月日

脇差 銘 芸州山縣郡移原住正光 六十五歳

以地産鋼鐵治之鍛之 慶應二年丙寅二月 日

ともに最末期の新々刀。

うん興味ないw

 

打刀 銘 芸州士松尾秀任 文久三年八月日

短刀 銘 応需平田広信 松尾秀任作是

慶応元乙丑歳八月

新々刀ばっかじゃん…

興味ねーーーーー…………

 

新々刀の創始者である水心子正秀の提唱した復古刀論とは

「日本刀の最高峰は鎌倉・南北朝期。実戦的な古来の製法へと回帰すべきである。」というもの。

戦国期の数打ち品や新刀期の簡易製法を経て、色々とキナ臭くなってきた江戸後期のこと。

だが、古刀期の技術は失伝・良質な材が採れなくなった・簡易製法による技術レベルの著しい低下等…

日本刀黄金期の復古を目指した新々刀ですが、古刀には遠く及ばず…

回帰できたのはごくごく一部、それも姿くらいなもの。

「実戦的な刀」が一人歩きし、古刀からは大きくかけ離れてしまった。

姿は見るも無残に肥大化し、下手すると重量は二倍以上に膨れ上がってしまった…

1kgを超える刀じゃとてもじゃないけど古流剣術は振れませんw

だが、ある意味この重量が「刀の重さで切る」という素人剣術に一役買うのであったw

ただし、重量に身体を取られるので防がれたり避けられたら死亡確定コース。

幕末期は250年続いた長い平穏に武士はすっかり腑抜けてしまい、その大半が剣の素人もしくは初級者である。

 

「日本刀の最高峰は鎌倉・南北朝期のもの」

はい、これ全くもってその通りでして平安、鎌倉、南北朝の上物の素晴らしさを知ると

新刀や新々刀など足元にも及ばない事がよくわかるのだ。

確かな鑑定眼を身に付ける事が大前提ではありますが。

 

ただし、新々刀でも水心子正秀の作刀は侮れないです。

さすがは古刀を研究し尽くしただけあって、あの時代にあれだけのものを作刀した腕前には脱帽です。

同時代の山浦なんちゃらだか源かんちゃらなんざどうでもいいわw

 

上:波菖蒲図鐔 、日月図鐔

下:月兎図鐔、臥猪の床図鐔

 

上:菊図鐔、高砂図鐔

下:蘭図鐔(銘 長州萩住友恒作)、狸囃子図鐔

 

上:鷹図目貫(銘 水戸住久則)、松鶴長春図鐔

下:牡丹図縁頭、藤図小柄・笄

 

上:芦雁図縁頭、歳寒二雅図目貫

下:竹図の縁金

ルーペのピントが合った奇跡の一枚w

 

ルーぺの死角にもう一つ

こちらは巴紋の魚々子地縁金

 

短刀 銘 備後國貞行正継作 平成元年十一月

いやぁ…思いっ切り新作刀っすね…

 

脇差 銘 大山住宗重

58.5cmというほぼ打刀の長脇差。

伯州大山ではなく芸州大山ですw

ここでようやく古刀のお出ましよ。

 

打刀 無銘(伝・兼長)

南北朝の大摺り上げで、元の目釘穴が無くなってるし大切先だしで三尺を優に超える野太刀だったのでは。

兼長は備前長船の刀工で長義の弟子とされてるけど

好き勝手やって長船を追い出された長義なので実際のところ怪しいと思うんだがねぇ…

それに兼長の「兼」の字ですよ。

この時代の長船派の棟梁は兼光。

これって兼光から「兼」の一字を貰ったんじゃないの?と考えるのが普通…

つまり長義ではなく本当は兼光の弟子なのでは?

最近では堀川国広が神のごとく崇められてますけど

国広が長義の写しを打ったってのが理由だと思うんだけど長義も付随して崇められてるんですよねぇ…

正直なところ長義も国広も過大評価だと思うわけですよ…

で、近年では長義の影に隠れてしまった感があるのが兼光。

兼光は正宗十哲の一人に数えられ相州伝の作風と備前伝の作風のハイブリット「相伝備前」を完成させた偉大な刀工。

同じく長義も正宗十哲の一人とされる説も存在するが正宗とは活動期間が合わずかなり怪しい。

長義も相伝備前の作風とされており、近年ではその人気ぶりからか相伝備前と言えばまずは長義の名が挙がり、次に兼光が挙がってくるのをよく目にする…

まさに逆転現象が起こっているわけですよ…

「相伝備前は兼光が創始し、長義が完成させた」みたいなのも目にするし…

おいおい冗談はやめてくれよって感じでして

正しくは「兼光が完成させた相伝備前だが、長義はそれを完全には再現できなかった」でしょうよw

ハッキリ言って長義ごときは兼光の足元にも及ばんぞ?

 

ええ、はいw本筋からちょいとズレてしまいましたw

兼長の作風は師・長義と同様に相伝備前と評価されているが、

それって長義じゃなくて兼光じゃね?と思うわけですよ。

前述の通り真の相伝備前は長義ではなく兼光。

 

打刀 銘 丹波守吉道

吉道は丹州三品派の刀工で、父の兼道を祖とする美濃伝からの分派。

三品派は前述した堀川国広の堀川派と並ぶ山城の刀派。

こちらは慶長新刀で、まだ古刀の姿を色濃く残した時代の物。

これ以降から徐々に新刀の作風へと変化して行き寛文期には完全な新刀の姿へと。

因みに寛文新刀以降は実戦なんて起こらないので何よりも携帯し易さが求められたというw

 

打刀 銘 摂刕住藤原長綱

はい、前述した寛文新刀がこれ。

反りが浅く、元幅と先幅の差が小さい、小切先(古刀のそれとは別物)というのが特徴。

というか、この時期の刀工は一貫してこの姿を打っている。つまりは没個性。

個人的に一番つまらん時代だと思っている。

刀工の個性という点では新々刀期の方がまだおもしろいわけですよ。

 

だが、彫りは素晴らしい。

刀の出来とは反比例して江戸時代の金工技術は素晴らしい。

 

打刀 銘 和泉守藤原兼重

和泉守と切っているので初代。

初代兼重は藤堂高虎のお抱えだったと伝わる刀工。

活動期は正保あたりまでとされギリギリ寛文新刀に入る前ですね。

 

打刀 銘 藝州住藤原兼先

寛文四年甲辰三月日

こちらも寛文新刀。

やはり前の二振とよう似てるわw

 

短刀 銘 来国光 貞和三年六月二日

来国光!!

なんかいきなり凄いのが来たけど来肌にしてはかなり粗…

そして、この時代に年月日を切ることは無いはずなので後銘と思われる。

 

短刀 銘 村正

村正!!

もう一発凄いの来たけど

なんだか刃文が…

そして茎も…それはタナゴ…なのか…?


左:黒漆塗仏二枚胴具足・二ノ谷形兜付

江戸前期だそうで、もしかすると実際に戦場で使用された可能性アリ。

右:紺糸素懸威鉄黒漆塗腹巻具足・頭形兜付

戦国期の具足ではなく江戸期の復古調具足だそうです。

具足を基に大鎧等の前時代の意匠を取り入れたものを復古調具足といって江戸時代に流行した。

こちらは胴が腹巻仕様になっている。

 

紺糸威二枚具足・鉄黒漆塗六十四間筋兜付

こちらは江戸初期~中期のもの。

二枚胴とは前胴と後胴を蝶番で繋ぎ、隙間を最低限に留めた実戦的な甲冑。

しかし、たぶん実戦では使用されてないでしょうなこれw

 

茶漆塗頭形兜 向鹿前立付

本多忠勝、山中鹿介、真田幸村(フィクションだがw)と鹿角を配した兜は結構多いが

鹿の顔から角が生えてる意匠は珍しいと思う。

 

日本号の写し

天下三槍のひとつで

写真じゃわからんけど穂先の長さだけで79.2cmという長大な大身槍で同時代の一般的な打刀の刀身(65cm前後)よりもずっと長い。

茎の長さだけでも62.5cmあり、全長141.7cm

全長321.5cmとかいうのを見たけどこれは柄の長さも込みででしょ?

 

正親町天皇→足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→福島正則へと渡り

その福島正則の逸話が有名。

黒田孝高の家臣・母里友信が使者として正則の屋敷を訪れた際、

酒豪として知られる友信へ正則は何度も酒を飲むように勧めていたが使者として来ていると固辞し続ける。

それに苛立った正則は大杯に酒を注いで飲み干したら何でも望む物を与えよう言い放ち強要する。

友信はそれを一気に飲み干し、日本号が欲しいと言い放つ。

正則は後悔するも武士に二言はないとして日本号を友信へ与えたというもの。

この逸話から日本号は「呑み取りの槍」とも呼ばれている。

 

更にこの逸話には続きがありまして

どうしても諦めることが出来ない正則は友信の主君の黒田長政を介し、

日本号と代わりの品を交換するように申し込むが…

友信は頑として受け入れなかったため、正則は長政へ不信感を抱き両家の関係は悪化してしまう。

これを見かねた竹中重利が間に入って仲裁、両者の兜を交換して和解となった。

これまた有名な黒田長政と福島正則の兜交換の逸話。

だが、これは朝鮮出兵時の些細な仲違いが原因という説もある。

 

更に言うなればこれは時系列的に正則が清州城主だった頃で広島城主になる前のお話であるw

 

四階は企画展の為、撮影禁止。

 

五階

 

北側

 

北東側

 

東側

 

南東側

 

南側

二の丸方面

真ん中ちょい右あたりに見える屋根が広島護国神社。

 

南西側

原爆ドーム方面。

 

ズーム

真ん中あたりの木々の合間から頭が出てるのが原爆ドーム

 

西側

 

北西側

 

最後に下からもう一度。

以上、広島城天守でした。

 

そのまま裏御門から出てきたわけですが…

本丸下の段(表御門方面)には売店があったんだとか…

うわぁ…見事にやらかした…

 

最後に裏御門前から二の丸と太鼓櫓。

どういうわけか二の丸方面行かなかったんですよねぇ…

駐車場から遠ざかるからだったっけか?

土塀・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が木造復元で、櫓は全て内部公開中。

内部には展示もあり。

更には三の丸跡(表御門を出てすぐ)は新たに周辺整備されており、

様々な店や施設が立ち並んでいるんだとか。

もの凄い勿体ない事したのでは…

 

やはり搦手から入るとやらかしが多いという事を再認識。

 

駐車場へ戻る前に昼食探し。

丁度、少し先に合同庁舎が目に入ったのでそのまま食堂へ。

本日の昼食

これが美味いんですよ。

役所の蕎麦には当たりが多いということがわかった。

 

…で、気付いた。

合同庁舎は城南通りに面している。

広島城の二の丸は城南通りに面している。

二の丸から出てくれば良かったんじゃね?

…と。

 

以上、色々とやらかしまくった広島城でした。

これも全ては駐車場が使用できなかった所為…