続・和歌山城。
今回は二階から。
金蒔絵梨子地葵紋散糸巻太刀
伝10代藩主徳川治宝画「花鳥之図」
11代将軍徳川家斉 黒印上
オットセイ将軍またの名を種馬公方というw
大奥に入り浸り幕政をほとんど顧みない、
それでいて歴代征夷大将軍(鎌倉・室町も含む)の最長在位期間を誇るという困った絶倫くんw
12代藩主徳川斉彊画「松に叭々鳥」
徳川斉彊はオットセイ将軍の二十一男。
12代藩主徳川斉彊 一行書
葵紋革製陣羽織
12代藩主徳川斉彊 書状
11代藩主徳川斉順 書状
14代藩主徳川茂承 一行書
本丸御殿の発掘調査時の写真と御本丸御絵図
本丸御殿南裾 出土品
天守一の門南側石垣 出土品
天守一ノ門櫓台南面 出土遺物
天守郭 出土遺物
黒塗蒔絵葵紋鞍
梨地葵紋金蒔絵四方御菓子器
天守跡から出土した地鎮具
左:玄関瓦
右:入口に敷かれたタイル
葵紋の鬼瓦
紀州徳川時代
浅野家家紋・鷹羽紋滴水瓦
浅野時代
桑山桔梗紋軒丸瓦
秀長時代は桑山重晴を城代としていた。
14代藩主夫人・倫宮則子和歌短冊
8代藩主の母 清信院の近況報告
14代藩主徳川茂承 書状
14代藩主徳川茂承印・別れの扇子
廃藩置県の際に東京在住を命じられた茂承が藩士に配った扇子だそうです。
群所治要(紀州版)
津田出書学「懐薫庵」
紀州藩家老三浦為隆 位記
高一万石人数定
紀州藩家老三浦家 大馬印
三浦長門守家は、家康より頼宣の傳役を命じらた初代当主・三浦為春を祖に
代々、紀州徳川家家老職を務めます。
為春は相模三浦氏の後裔を称し、正木姓を改めて三浦姓に復することを家康から許されている。
左:三浦家金紋狭箱
右:三浦家家紋付鬼瓦
左:三浦家毛槍
右:三浦家纏
三浦家家紋付火縄銃
紀州藩家老三浦家 軍列図(家風一備三陣列行図)
三浦家は小大名並みの1万5000石を拝領しており、
出陣の際には紀州徳川家とは別に三浦家のみで
先陣・本院・後陣の三陣からなる軍列を率いていたそうです。
双青寮廿一勝
三階
廻縁に出られます。高欄が高ければ怖くないw
こちらは小天守の屋根。
北西方面
北方面
北東方面
右端に見えるのが本丸御殿曲輪
東方面
南東方面
南方面
南西方面
西方面
二の門櫓と乾櫓
在りし日の和歌山城模型
天守は慶長五年(1600年)に浅野幸長の創建説と元和五年(1619年)頼宣の創建説があるが、
弘化四年(1847年)に本丸曲輪への落雷によって焼失。
嘉永3年(1850年)に再建され、旧国宝に指定されるが和歌山大空襲で焼失。
例に漏れず廃城令を免れても空襲で焼かれてしまったというね…
現在の天守は昭和33年の再建の外観復元。
本丸を拡大
木が生い茂ってよく見えなかったけど天守曲輪と本丸御殿の曲輪がそれぞれ別の山になっていることがわかる。
後ろに写ってるのはマウントポーズでケースにへばり付いてる少年w
来たルートの反対側から見たかったんだけど…
丁度良いタイミングで少年がへばり付いて来てしばらくへばり付いてる様なので諦めました。
下の階へ戻り、渡櫓へ。
木造天守を意識した造りの大天守と違い、渡櫓はほぼ普通の廊下ですw
鳥類図巻
源氏物語屏風
左:夕顔、右:花の宴
左:明石、右:須磨
安政二年(1855年)の和歌山城下町絵図
松坂札
銭箱と銭升
借用証文
三道具
上から刺股、袖搦、突棒
拍子木と十手
鳶口
龍吐水
華岡青洲の肖像、花岡家の手術器具(複製)、瘍科瑣言
記録上で世界初の全身麻酔手術を成功されたとされる紀州藩の外科医。
薬屋看板、薬研、麻酔薬の原料
軍船雛型
金子箱
大阪便蒸気船 船名札
道中独案内図
布袋と漆塗絵付縁起棚
瓦製鐘馗像と布袋
まりと殿様歌碑の拓本
紀州てまり「蜀江錦」
和歌山城・大阪城姉妹城提携記念
豊臣秀吉・秀長兄弟の城として大阪城と提携を結んでるらしい。
豊臣政権下の秀長の本拠は大和郡山というツッコミは野暮だろうかw
日本百名城認定証
旧天守の焼け残った部材でしょうか。
大天守の礎石や柱等
一周してさっきの屏風絵。
大天守から渡櫓経由で二の門櫓、乾櫓、小天守へと繋がっているのですがいずれも閉鎖されています。
以上、和歌山城天守でした。
頼宣、吉宗ゴリ推しなのを想像してたんですが意外にも全然でした。
家康の息子達の中では秀康と頼宣が好きなのでちょっと残念…
頼宣は家康の十男で一番可愛がられたそうで、
駿府へ隠居後も頼宣を駿府藩藩主として手元において教育したとか。
大坂冬の陣で初陣を飾り、夏の陣では先陣を希望するもまだ14歳の若さのため、要望は受け入れられなかった。
「これからいくらでも先陣に立つ機会はある」と宥められるも
「14歳が二度あるのか」と激昂、これを聞いた家康は今の言葉こそが手柄と褒め称えたとか。
翌年、頼宣15歳のとき家康が死去。
その後、頼宣へ多大な影響を与えたのが真田信之。
そう、このワタクシの好きな戦国武将不動のNo.1真田信之公。
頼宣は信之のことを尊敬しており、何度も自邸に招き武辺話を熱心に聞いたり、藩主たる者の心構えを師事したとか。
後に紀州徳川の祖、名君・徳川頼宣として語り継がれますが、
信濃の獅子こと真田信之の教えがあったからこそ他ならない。
ということで信之絡みで頼宣が好きなんですよね。
最後に連立式天守全体を。
ベストビューポイントなんだけど
どう頑張っても木と小天守が被ってしまう…
天守石垣
打込接なので浅野幸長の創建説が有力な気がする…
新裏坂
現在は搦手側にあたりますが
浅野時代の外壁にあたる場所だそうです。
この辺りの石垣には刻印が入っているのですが
普通は普請を担当した大名の家紋が入るのですが
こんな感じの象形文字の様な謎刻印。
何を記しているのか謎だとか。
いや確かに…
追廻門前の桝形
追廻門
寛永六年(1629年)創建の高麗門で、城内の数少ない現存建築物。
振り返って
史跡 和歌山城
以上、和歌山城でした。
本日は城のすぐ近くのホテルへ宿泊。
表通り側の部屋~表通り側の部屋~表通り側の部屋~~~!!
…と祈るw
部屋の窓から
いやもうバッチリっすよw
反対側の部屋だったら悲劇だったわーw
続く












































































































