続・二日目。

今回は坂井市丸岡から再び福井市へ。

そういやリアルタイムの貼ってなかったw

 

特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡

 

その前に本日の昼食

メニューが少なくて結局今日もまたソースカツw

後に語られる毎日カツ伝説二日目である。

 

一乗谷朝倉氏遺跡博物館

ロビーにあった朝倉義景最後の晩餐パネル

 

この日、入館料無料の期間でしてそのため受付に人が居なくてですね

館内撮影可なのか不可なのかが謎なので撮ってません。

 

丁度スタッフさんが居て撮影可の確認が取れた、朝倉館原寸再現室

朝倉氏居館再現模型

 

こちらは復元された範囲図

再現されたのは中庭周りのごく一部の模様。

 

 

寸法から内装まで可能な限り当時を再現しているということです。

 

会所

足利義昭をもてなした部屋とされ、上段の畳に義昭が座したのでしょう。

 

再現されていませんが、この位置から渡り廊下の先の右側に主殿があったそうです。

 

中庭を囲む様な形の範囲が復元されています。

 

 

 

泉殿

 

 

小屋敷

 

コスプレ室

担当スタッフさんが居るのかと思いきや

勝手に着てくれとばかりに誰も居ねぇ…

一般人に素襖の着付けは無理じゃね?w

 

三つ盛木瓜の前立て付きなので図らずも朝倉家の誰かになるw

因みに朝倉義景所用と伝わる具足は銀箔押二枚折紙頭立兜という変わり兜で、

全く違うデザインだったりする。

 

武士の正装、通常は太刀を携帯しないが…

これは永禄の変である。

ええい!曲者め!!

そして討死する…

 

以上、一乗谷朝倉氏遺跡博物館でした。

世間一般での知名度が高いとは言えない朝倉氏ですが、

一乗谷が有名観光地になりつつあることから、客足は結構なものでした。

 

続いて一乗谷遺跡なのですが…

雨が降ってましてね…歩いて周るのはやめました。

以下、車内から撮影。

西側のみですw

 

 

 

 

 

これ、たぶん石で囲ってるのが当時の町割です。

百尺(約30m)を基準の整然とした町割で京都の街並みの様だったとか。

 

 

こんなところにバス停がw

朝倉館前だそうです

 

 

 

朝倉館跡は東側でして…

頑張って撮ったけどこんなもんw

江戸時代に復元されたとされる門と背後の山が一乗谷城跡。

対織田に備えて堀切を追加する等で防御を固めたが、結局防衛に使われる事はなかったという…

 

復元町並

こちらも入る予定だったのですが雨降ってるのでやめました。

 

 

 

 

なんか足場組んでるな…

 

 

以上、一乗谷遺跡でした。

歩けなかったのは残念だが、結構な雨が降っているので仕方なし。

 

大獄砦の陥落~刀根坂の戦いで朝倉本家はほぼ壊滅。

義景は一乗谷へ帰還するも国衆達の相次ぐ離反によって

最早防衛は不可能と一乗谷を放棄、5代100余年の栄華は織田軍の襲撃によって焼き払われてしまいます。

 

義景は国内の難題が山積みで従曾祖父や叔父任せにしていたという説もあり、

国衆の離反はその辺が原因だったんでしょうね。

最期は腹心であり従弟の景鏡に裏切られて自刃します。

個人的には太平の世であれば名君になってたんじゃないかなぁと思うんですがね…

警戒心が強すぎたため、ここぞという決断力に乏しく乱世を乗り切れる人物ではなかった。

 

続いて総光寺

こちらは織田家筆頭家老・柴田勝家に次ぐ

織田家次席家老・丹羽長秀の墓所。

因みに佐久間信盛が筆頭だったが、失脚により両名が繰り上げっている。

 

織田四天王(柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀)にして、

柴田勝家と並び織田家の双璧とも言わる。

本能寺の変後、清洲会議では秀吉が後継者に推す三法師(織田秀信)を支持し、賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。

しかし…

自分とともに三法師を盛り立てて行くものと信じていた秀吉は気付いた時には信長の後継者として振舞っていた…

死因には諸説ありますが、

長秀は寄生虫による病に苦しめられており、苦痛に耐えきれず腹を切ったとされ、

上記の恨みから臓物の腫瘍を秀吉へ送り付けたという説がある。

 

続いて、近場にある柴田勝家公資料館。

しかし、事前予約が必要な様でして…

閉まってました。

 

隣接する西光寺境内。

こちらは柴田勝家、お市の方の墓所。

先述の清洲会議で勝家は織田信孝を後継者に推し、秀吉との対立を深めていきますが…

現代人の感覚では幼い三法師を秀吉が意のままに操ったという印象がありますけど(結果的にそうなりましたがw)

本能寺の変前から既に表向きは信忠が織田家の家督を相続していたので幼年とはいえ三法師は織田主家の正式な嫡子であり

当時の常識からすると家督相続権が三法師にあるのは至極当然の事だったりするわけです。

これに異を唱えて我こそが後継者と吹聴する信雄、信孝がおかしかったりする。

賤ヶ岳の戦いでの敗走から北ノ庄城へ逃れるも秀吉軍に包囲され、最期はお市の方と共に自害。

三人の娘たちは秀吉に保護され、長女・茶々は後に淀殿と呼ばれ…

 

 

続いて、こちらも近場にある北の庄城址・柴田公園

柴田勝家時代の北の庄城の主郭跡とされる地です。

七層構造の天守が建っていたとされ、安土城(七層)に並ぶ大きさだったとされる。

一説には九層の天守とも言われるが、主君の天守を超えるのは許されんでしょうと。

結城秀康入封後に城は大幅拡張。

主郭は現在の福井城跡に移され、この辺りは三の丸の外堀沿いになったと思われる。

 

柴田勝家・お市の方と三人の娘

お市の方は再婚のため、三姉妹と勝家に血縁はなく実父は浅井長政。

今更説明するまでもなく有名な話ですがw

 

現在はこんな感じで

良く見ると僅かな遺構を残すだけの公園になっています。

 

こちらの橋は九十九橋の復元で材は当時と同じ笏谷石だそうです。

こちらが橋脚

橋の奥の道路がおそらく外堀跡かと思います。

結城秀康の大拡張後は三の丸の端あたりだったのでしょう。

 

北の庄城址資料館

先に二階から

これらは発掘調査による出土品の陶磁器や古銭等。

 

ほとんど原型留めてませんが右が鬼瓦だそうです。

左はルイス・フロイス書簡

 

柴田勝家判物(右)と柴田勝家安堵状(左)

 

柴田勝家、お市の方 辞世の句

柴田勝家「夏の夜の夢路はかなきあとの名を」

お市の方「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の」

 

こちらは勝家期北ノ庄城の鬼瓦を復元した物。

 

柴田勝家肖像画

 

お市の方肖像画

見事に自分写るw

 

中庭

辞世の句碑?

小さな庭園のようになってました。

因みにこの資料館は武家屋敷跡だそうです。ここは中庭跡とかだったり?

 

一階

舟橋の鎖

舟橋を用いる際に舟同士を繋いだ鎖と思われる。

説明版には舟橋について書かれているが、何に使った鎖なのか書いておらぬではないかw

 

こちらも九十九橋の橋脚

半石半木(北半分が木、南半分が石)の珍しい橋で江戸時代に有名になるそうですが

これを架けたのが文献・絵図等の研究から柴田勝家と考えられているとか。

 

以前は高さ5.7m、縦横4mという柴田時代の天守模型が展示されていたそうですが現在は撤去されています。

こちらが僅かに残る遺構。石垣と堀跡。

石垣と堀跡。

打込石垣なので結城秀康による拡張時のものでしょう。

 

柴田神社と右に鬼柴田

 

 

拝殿から

 

柴田勝家公像

穂先50cmはありそうな大身槍を装備していますw

作った方はわかってらっしゃるw

 

お市の方像と三姉妹像

長女・茶々(淀殿)

次女・初(常高院)

三女・江(崇源院)

最早説明不要、戦国一数奇な運命を辿ったとされる三姉妹。

茶々は豊臣秀頼生母として徳川幕府における事実上のラスボス。

初は京極高次の正室、後に出家し徳川・豊臣両家の関係改善に奔走。

江は佐治一成と離縁、羽柴秀勝と死別を経て徳川秀忠と再婚。

後に夫は二代将軍となる事から茶々とは対立関係に。鬼嫁として有名w

 

お市の方に肖り、美(モテ)祈願なんてのをやってましたw

戦国一の美女やら絶世の美女やら言われ実際モテモテだったという。
織田家は高身長で美男美女の家系だったらしい。

勝家とお市の方の結婚にも諸説あり、
勝家との仲違いを恐れた秀吉が、お市の方に惚れていたとされる勝家の元に嫁がせたとか、
秀吉の織田家専横を阻止するため、織田家の結束を強くするための勝家とお市の方の策だったとか。

 

そもそも秀吉自身もお市の方に惚れており、

側室に迎えた茶々が三姉妹の中で母親の面影を一番よく受け継いだというのも有名な話。

今の感覚だと母娘共々に惚れる変態野郎w

 

神社の脇に柴田勝家時代唯一の遺構の石垣。

柴田神社周辺が天守跡と伝えられる場所だそうです。

柴田時代の天守は北ノ庄城の戦いで焼け落ちており、

 

以上、柴田公園でした。

考えてみたら本日は滝川一益を除く織田四天王所縁の地を周ってたんですね。

 

次回は再び越前松平家。