今回はですね…

ワタクシ、藤原の強い希望によってやって来ましたよ…

明智光秀・熙子 黒髪伝説。

当ブログでも何度か言ってますけど三本の指に入るほど好きなんでよね明智光秀。

勿論、麒麟がくる以前からな。

 

今回の目的地はこちら、称念寺。

養老五年(721年)創建とされるかなり古い寺院。

 

そして、この門前には…

正確な場所までは不明なのですが

浪人時代(朝倉家客将または家臣説もあり)の光秀の住居があったと伝わっています。

 

ガイドさんの案内で境内へ。

 

こちらの寺はですね…

太平記に藤島の戦いで戦死した新田義貞の遺骸が往生院へ運ばれた。

という記述がありまして…

称念寺の院号が往生院なんです。

つまりは…

新田義貞はここに葬られたのだ。

 

新田義貞公墓所

浪人時代の光秀がこの墓所の前で毎日手を合わせていたという逸話もあります。

義貞の武名に肖り「俺はこんな所で終わらんぞ今に見てろよ」と思っていたのかもしれない…

 

なんと、ガイドさんのご厚意で中に入れてもらえました。

普段は閉鎖されている場所なので内部の写真は控えさせていただきます。

 

新田義貞は楠木正成に次ぐ南朝の名将とされ、足利尊氏とはライバルとされることが多い。

石津の戦いで戦死した北畠顕家に続き、藤島の戦いで新田義貞も戦死。

有力二将を失ったことによって南朝は劣勢は決定的となり、

足利尊氏が征夷大将軍に任命されることとなります。

 

続いて本堂。

徳川氏は新田氏後裔を称していたため、幕府は称念寺を大切に保護していたそうですが、

明治政府の版籍奉還によって無檀家無俸禄となり経済的危機に陥り…

その後、広島県尾道の海徳寺住職高尾察玄師によって大正13年に再建を果たしますが、

昭和23年の福井大地震により再び壊滅的な危機に陥ってしまったという…

高尾察玄師の弟子の高尾察良師が復興の尽力し、現在の称念寺に続いているそうです。

 

本堂内部

 

向かって左の外陣

 

向かって右の外陣

 

内陣

奥には新田義貞の木像が鎮座している。

こちらの木像は家康が造らせたと伝わっているそうですよ。

以上、称念寺でした。

普段、御朱印は貰わないのですが、

光秀所縁の寺院ですし、折角なので黒髪伝説の御朱印をいただきました。

 

黒髪伝説とは

江戸時代中期に書かれた明智軍記に記されており、

浪人時代の光秀が称念寺門前に住んでいた頃の話で

称念寺の住職が、光秀に朝倉家の家臣との連歌会の機会を設けてくれますが、

貧困の光秀には連歌会を開催する十分な資金がなかった…

そこで妻の熙子は自慢の黒髪を売って資金を作り、

連歌の会は熈子の用意した酒肴で大成功に終わった。

…という有名なエピソード。

 

 

続いては

重要文化財、丸岡城

城の縄張りは残念ながら僅かに本丸曲輪を残すのみ。

堀も埋め立てられてしまった為、丘の上に天守があるといった感じの少々残念な姿に…

 

この辺りとか一の門の虎口だったんじゃなかろうか…

そしてあれに見えるが…

現存十二天守、丸岡城天守

望楼型で回廊と立派な破風でわかり難いけど実は二重天守なんです。

城郭は残念でも現存天守があれば許されるw

石垣は戦国時代らしい野面積みで高さ6.2m

やはり現存天守は風格が違う…

 

伝説「人柱お静」

人柱伝説って結構色んな城で聞きますよね。

各地で聞くという事はこういった悪習が当然の様に行われてたのだろうなと。

 

お静慰霊碑

 

野面積みはええのう。

後代の特に切込接は逆にかっちりし過ぎててあまり魅力を感じないという。

 

いざ、天守内へ。

 

一階

内部はそんなに広くなく、時代的に考えて権威に象徴というよりも司令塔として機能していたのでしょう。

築城は天正四年(1576年)柴田勝家の甥、柴田勝豊によるもの。

現在のこの天守も天正四年築城時のものと考えられ、現存する最古の天守…

…とされていましたが、これはそれまでの定説。

2019年3月、調査の結果から1624年~1644年(後に1628年と判明)築城と推定されることが発表されました。

部材を調べると、その多くが1620年代後半以降に伐採された木材と判明したそうです。

そんな事までわかるのかよすげーなおい。

しかし、天守台はどう見ても慶長初期以前の造りなので

柴田勝豊時代にも天守があったと思うんですよね…

あとは望楼型天守というのも気にかかる…

1628年と言えば既に層塔型天守が主流になってるんですよね…

しかも天守ではなく御三重櫓として。

柴田時代の天守をベースに本多時代に大幅改修を施したと考えれば色々と腑に落ちるんだけど。

 

在りし日の模型。たぶん江戸期。

 

 

 

こうして見ると本丸とそこに続く坂道しか残っていない事がよくわかる…

 

そしてこの階段よ…

やばいですこれw

今まで見てきた現存天守一の急勾配且つ狭い足場w

手すりにロープ付いてるのなんて初めて見たわw

 

二階

望楼型らしく二階からはかなり狭い。

 

初代藩主である本多氏 作左衛門家

家康の初陣から付き従う老臣で「鬼作左」の異名を持つ本多重次と、その嫡子・成重。

越前松平家に仕えていたが忠直改易の際に越前丸岡4万6300石の譜代大名として取り立てられた。

因みに越前丸岡藩成立時には重次は既に他界していたり。

 

徳川譜代の本多一門は多く、

平八郎家(忠勝)と弥八郎家(正信)の二家が圧倒的に有名なので

作左衛門家の一般知名度はイマイチ…

 

実質、隠し階層なので天井は低い。

 

破風の間

 

 

破風の間から

 

階段裏に謎のスペース

武者隠し?

…にしては狭すぎるか

 

階段w

この角度おわかりいただけるだろうかw

春の旅行で丸亀城の階段がこれまで見た階段で一番ヤバイと言いましたが

更新しましたwこっちの方が数段ヤバイですw

 

三階

以下、四隅から

 

 

 

 

天井

 

 

回廊

現存天守で回廊に出られるところは意外と少なく、

我々がこれまで見てきたところでは犬山城とこの丸岡城のみだったり。

うーん…

天気がよろしくないのでイマイチ…

これ、晴れた日だとまた違ったんだろうなぁ…

前方のグラウンドが水溜りでやばいことになってますw

 

柱にロープw

 

ダブルロープで降りるトシゾー教授

手すりなど使わんのが美学の藤原でしたが

さすがに死の恐怖を感じたので手すりもロープも使いましたw

 

そういや、太ましい方が「降りれない~」と嘆いてました。がんばれw

 

明治8年(右)、明治19年(左)

 

明治34年(右)、明治45年(左)

昭和9年に天守は国宝へ認定されますが…

昭和23年の福井地震によって倒壊した天守

昭和25年に文化財保護法により天守は重要文化財に指定されますが、

この倒壊が原因なのか事実上の格下げ。

昭和30年に倒壊した材の8割近くを再利用して復元、現在に到ります。

以上、天守でした。

 

本丸内の霞城山八幡神社

丸岡城の別名を霞ヶ城という。

 

草ボーボーの丘と思いきや

よく見ると石垣ですねこれ。

 

天守真下には健全な状態の石垣

現在も残る数少ない貴重な遺構です。

 

こちらは偽石垣

偽石垣の間から伐採された木の跡が…

 

丸岡歴史民俗資料館

パネルがメインで展示はあまり多くなかったり。

 

当時の縄張りジオラマ

内堀内に本丸・二の丸って結構珍しいよなと。

 

こちらは有馬家の指物、馬具、具足、太鼓

前立てに有馬瓜っぽい紋が入っているが…

微妙に違くないか??

こちらの丸岡歴史民俗資料館ですが、

つい先日の令和6年8月31日限りで閉館してしまったそうです。

 

昼飯探しで彷徨ってる最中に偶然発見したビューポイント

 

 

こちら側の方が石垣が健全に残っている様な…

もしやこちらが正門側だったり?

 

以上、丸岡城でした。

次回は鬼柴田。

続く