旅行中の最高気温が28℃

帰ってきたら12℃だかそんなもんで

気温差15℃以上にやられて見事に風邪をひき、未だ完治しておりませぬ(咳がしつこい治まらん)

四日目だけで15km以上歩いてると思うので体力的な疲労も蓄積されてたのでしょう。

 

とはいえ、肉体的な疲労感はあまり無くてですね

筋肉痛的なものはその日の夜に来て翌朝にはほぼ治ってまして

「社会人になった途端、筋肉痛が次の次の日に来るようになった」とかいう話をよく聞きますが、

我が人生、未だ翌々日以降に筋肉痛が来た事など一度もありませぬ。

しかし、足の外傷が結構酷くてありえないくらいデカイ水膨れが出来てましたw

つまり…

フレームは無事だったが装甲が持たなかった

 

そういや去年の春の旅行後(厳密には最終日から)も疲労から風邪こじらせてるんですよね…

去年の五日目は5時間ほぼ休息なしのぶっ通しで歩いてまして

たぶん、今回の一日15kmなんて余裕で超えてたと思うんですよね…

 

という事で去年の五日目の続きですよ。

今回はトシゾー教授の強い要望でやって来ました

野見宿禰神社

天神様こと菅原道真公を崇拝するトシゾー教授。

菅原道真は野見宿禰の後胤とされる。

つまりはそういうことだw

 

標高98.3mだそうです。

月山富田城(標高183.9m)を麓から踏破した我々には余裕…

…と思われる。

 

 

朽ちた土塀。

 

力水

左下の「力水」の文字は第四十四代横綱 栃錦の直筆だそうです。

 

野見宿禰は力士の始祖、相撲の神とされ

地方巡業の際に多くの有名力士がこの地を訪れているそうですよ。

 

これが「野見宿禰神社」の鳥居。

麓の神社は「龍野神社」なのです。

 

そしてここからが真の地獄であるw

登り切ったと思いきや

まだ先があり

今度こそ登り切ったと思いきや

まだまだ先があり…

…というのを繰り返し

展望台へ着

 

そしてその先が…

はい、最後の試練ですよw

写真で見るよりもずっと段も傾斜もキツかったw

115段だそうですw

 

踏破!!

石扉には千家氏の亀甲に剣花菱紋

野見宿禰は出雲国の出身ですが、

垂仁天皇から大和国に招かれて当麻蹴速と力競べをし、これに勝利。

これが相撲の発祥と言われています。

…が、同じく出雲国には国譲りの際にタケミカヅチとタケミナカタの力競べが相撲の発祥という伝説もある。

 

上から

 

足場が狭く全体が写らんのですよ…

頂上に祠が見える…

野見宿禰神社の名ですが、実は野見宿禰の古墳なのだ。

 

野見宿禰は大和国から出雲国への帰路の途中で重病にかかり、

そのまま亡くなってしまったとされます。

野見宿禰の功績をよく知るこの地の人達が大きな墓を造り、そこへ埋葬されたという伝説。

つまりこれがその古墳なのです。

 

石扉に閉ざされて先へ進めないと思いきや

両サイドに道がついてまして

先へ進むと

墳丘の真上に続いているのですよ。

 

下界の眺め

 

 

 

 

 

結構新しいですねこれw

割と近年のものでしょう。

 

115段を戻る…

 

折角来たので麓の神社へ。

水天宮社

祭神は天御中主神

 

粟嶋神社

祭神は少名彦名命

 

 

ここから龍野神社

 

扉には脇坂の紋

 

 

拝殿

龍野神社と、先ほどの野見宿禰神社、玉島嶋稲荷神社が合祀されています。

祭神は建安治主神

安治…?

建安治主神(脇坂甚内安治公)

で、出たーーーーーーーーー!!

金吾様と裏切り四人衆の一角、脇坂中務少輔安治

…と裏切り者扱いされてはいるものの

その実、当初から家康側へ協力するつもりだったが、関東へ向かう途中で三成軍に阻まれ止む無く西軍に付いたという話。

しかし、悪いイメージは払拭できず、

みんな大好き大谷刑部敗死の直接原因のひとつとなっており、更にイメージは悪くなるw

ということでワタクシもこやつは好きにはなれませぬわ。

これ地元の人に言ったらブチ殺されるかも…

 

その奥に本殿

 

城山八幡宮

 

祭神は誉田別命

 

 

この先、聚遠亭

江戸末期の茶室や庭園があるそうですが

龍野市街徘徊組との合流が差し迫っているので遠くから眺めるだけ。

 

龍野市を後にし…

遂に最大の大物へと再び挑む。

ここから5時間ほぼ休息なしのぶっ通しで歩きの始まりですよw

 

続く。