津山城を後に、続いて麓の津山郷土博物館へ。
昭和9年築の旧津山市庁舎だった建物だそうですが外観の写真撮ってませんw
洋風の立派なエントランスもw
館内の展示は先史時代~近代まで。
まずは先史時代から
約1300万年前に絶滅したパレオパラドキシア
津山で発見された化石からの骨格復元模型。
完全に人類誕生前ですなw
発見された化石たち。
弥生時代~古墳時代
陶棺のレプリカ
去年の秋にこういうのたくさん見たなとw
こちらは古墳からの出土品。
朽ちた鉄剣が二振。
例の如く朽ちてしまって原型留めてません。
鉄は腐食してしまうので原型を留めている事自体が奇跡。
銅剣は緑青(青錆)が発生し腐食を防いでくれる為、原型を留めたまま出土されることも珍しくない。
奈良時代~平安時代
美作国の国府・国分寺跡からの出土品
久米廃寺からの出土品
こちらなんと仏像の破片です。
左奥のとぐろ巻いてるヤツはう〇こ…
…ではなく如来像の螺髪だそうですw
美作国分寺伽藍模型
発掘調査された奈良時代の井戸の復元
鎌倉~室町時代
この時代に守護は梶原景時に続いて和田義盛。
両氏とも政治抗争に敗れ滅亡。後に北条氏の所領となっている。
肉親であっても少しでも落ち度があれば容赦なく殺す頼朝から続く負の連鎖。
旗揚げからの功臣であっても例に漏れず。
平安末期に美作で盛行した勝間焼だそうですが
鎌倉時代には生産されなくなったという謎の多い焼き物だとか
宋銭
戦国時代
山名氏が美作国の守護大名だったが、応仁の乱により衰退。
以降は赤松氏、尼子氏、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏と支配勢力が何度も入れ替わる激戦地だった。
津山城下町図
江戸時代
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋の所領となるが僅か二年で改易。
続いて森忠政が入封し津山藩が成立。
こちらが備中櫓にあった写真の津山城復元模型の現物。
これ凄まじいデカさと精巧さなんですよ。
実際に城跡をくまなく歩き、更に在りし日の姿を模型で見るといかに凄い要塞だったのかがよくわかる。
こんな素晴らしい城郭を容赦なく破却してしまうアホ明治政府。
ホント、ゴミだわカスだわクソだわ。
くたばれ腐れ×××ども
あ、もうくたばってるか
東側
現在も残る堀川側から
南東側
真ん中にあるのがさっき最後に通った住宅地の道w
南東にも堀池があったんですね。
南側
手前の虎口が現在の城の入り口で、天守の前に見える櫓が備中櫓。
南西側
左端に見える通路が現在の城へ続く正面階段。
西側
櫓は全部で77棟あるそうです。
こちらが正面じゃないのかってくらい櫓が張り巡らされてるのがよくわかる。
大幅に迂回しながら本丸へ辿り着く正面。
最短で本丸へ辿り着けるが防御施設だらけの搦手。
個人的には正面よりもこちら側の方が好きだなと。
北西側
薬研堀と厩堀に忌まわしき片道ゲートの場所w
北側
右奥の通路が忌まわしき片道ゲートw
この辺りは現在は完全に自然に返ってますが…
手前の桜門の石垣だけが草木の間から頭を出しており、城郭の一部だったことを物語っている…
天守
四重目は屋根ではない 庇(ひさし)である
いやぁ…さすがにこれを屋根じゃないと言い張るのは無理があるでござるよ忠政殿w
昭和11年に2/3サイズの模擬天守が再建されたそうですが、
こちらは破風の付いた五層(庇ではない)天守で史実とは全く違う姿だったそうな。
昭和20年に空襲の目標にされるという危惧から解体されたそうです。
2012年には1/2スケールで史実に基づいた外観の施設が設置されたそうですが
発砲スチロールや合板で作られた簡易的なものだったそうです。
当然、今は残っていない。
森氏の鶴丸紋の棟瓦
数少ない森氏の書状
津山松平家の書状
森家縁の品は赤穂へ持って行かれてほとんど残っていないのかも…
江戸後期~明治
葵紋の馬印
こちらが現在の鶴山館が「修道館」だった頃の扁額
ものすごいデカイ
扁額とは神社の鳥居とか城門に掛かっているアレのこと。
以上、津山郷土博物館でした。
残念ながら武具類の展示は無し。
以前に企画で郷土の刀剣展を開催してたそうですが新刀~現代刀だそうです。
うわぁぁぁ興味ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!(古刀至上主義者)
お隣のミュージアムショップに刀剣の図録が置いてたのですが
結構な値段で中身が見れないのでやめといたのですが
やめて正解だったかもしれねぇ…
次回は遂に備後国へ。
続く