今回から四日目。

早朝の松江城

本日は昨年の米子城でスルーしてしまった飯山を巡る予定…

…なのですが、個人的にはこちらの方が無念でしてね…

 

中村家のお家騒動よりも山陰の覇権争いだろうということで本日は別行動。

再びやって来ました月山富田城!

単独行動になるのでレンタカーは米子城組に回すことになるだろう。

さて、どうやって行くべきかと思案していたところ

トシゾー教授と又五郎殿も富田城組に加わった為

人数比によりレンタカー使用権が我々の物となりました。

JR安来駅~月山富田城は結構な距離があるので非常に助かりました。

前回は山中までクルマで移動だったが、

今回は折角なので「最下層から徒歩で踏破」の覚悟で来ました。

千畳平まで270m、鹿介像まで300m

マップを見ると麓の道の駅のすぐ裏側にある様イメージだったんだけど

結構離れてんのね…

 

あれに見えるが千畳平。

え…?

 

いやちょっと待て。

想像していたのと全然違うぞw

いきなり曲がりくねったほっそい山道ですよ。

既に息の上がっているトシゾー教授と又五郎殿なのであったw

 

 

頂上が千畳平

 

向こうが馬乗馬場

更に登って

 

馬乗馬場へ着。

全長約140メートルの細長い曲輪で

その名の通り馬の調練所だったそうですが、

有事の際にはここも防衛用の曲輪として機能していたんでしょうね。

上からだと見えないのですが先端部に石垣の跡があり、

櫓が建っていたのではないかという事です。

 

これぞ中世山城の城郭の姿。

そして谷底にはさっきまで登ってきた道。

馬乗馬場と千畳平から狙い撃ちにできるわけですよ。

 

毛利軍が辺り一面を包囲してたんだろなと。

 

 

こちら側の前方にも曲輪跡が。

しかしこれ以上は進めず向こう側へは行けないんだろか。

 

正面前方は墓地になっているのですが

土塁が盛られているのでおそらくは富田城の一部だったんでしょうね。

墓地には広瀬藩9代藩主松平直諒の墓所、

右手の山の麓には広瀬藩松平家の菩提寺である城安寺が。

 

こちら側は下が見えぬ…

馬乗馬場へ来ただけでもすごい達成感でしたw

それでは千畳平へ向かって再び登りましょうか…

因みにここの勾配が一番キツイw

 

前方に見えるのが先ほどの馬乗馬場

 

千畳平へ着

平坦な270mかと思ったら結構な勾配の270mだったという。

そしてこの案内板を見て軽く絶望する二人…

まだ全体の二割程度という現実にw

 

それっぽい建物だがトイレねw

 

尼子神社

 

主祭神は尼子経久、晴久、義久。

山中鹿介幸盛外諸勇士

家督を継ぐ前に亡くなった政久、富田城主になっていない勝久はカウントされていない。

 

櫻内幸雄の碑

 

千畳平は有事の際の城兵集合の場だそうでして

月山富田城の戦いの際もここに尼子軍の主力が集結して防衛線を張ったんでしょうね。

 

ここからも中世山城の城郭の姿がハッキリと見えるわけですよ。

これを見れただけでもわざわざ徒歩で登ってきた甲斐があったわ。

 

曲輪の真下には資料館と道の駅、その先に広瀬川。

第一次月山富田城の戦いでは毛利軍45000。

第二次月山富田城の戦いはで毛利軍30000~35000。

いやもう、広瀬川の向こう岸が毛利軍で埋め尽くされてたんでしょうねこれ。

 

こうして見ると

かなり広い曲輪だということがわかりまして

ここへ兵力を集中させて毛利軍を撃退、

この千畳平が間違いなく激戦区だったことでしょう。

 

千畳塀先端

この先も曲輪跡のようになってますがこれ以上は進めません。

 

山中御殿まで760m

 

脇道

これはたぶん車で上がるルートへ繋がってると思われる。

 

 

 

続いて太鼓壇へ。

 

由来は時刻を知らせる太鼓を吊るした建物があったからだそうです。

前方の建物は太鼓ではなくただの休憩所であるw

 

真下には馬乗馬場

 

谷底が見えなかったこちら側は…

よく見ると池があるんですよ。

馬場に隣接されているという事もあって

松江城で言うところの馬洗池的なものでしょうかね。

 

太鼓壇の奥へ行くと…

これか!!

山中鹿介幸盛の像。

生年不詳だが天文14年8月15日(1545年9月20日)有力とされ、

34年という極太で短い激動の生涯を送った人。

最期は上月城の戦いで信長に見捨てられ孤立無援。

鹿介は捕らえられて高梁城へ連行されるが、

その最中に福間元明によって謀殺されてしまいます。

これはアホの輝元の密命とも言われている。

 

願わくば我に七易八楽を与えたまえ

前回は日輪に祈ったが、今回は鹿介と一緒に祈る。

因みに、今でこそ一般的知名度はそこそこの山中鹿介だが

戦前は衰亡した主家に忠誠を尽くして戦った

悲運の英雄「山中鹿之助」として愛国心教育の格好の題材だったそうですよ。

衰亡した主家に忠誠=衰退していく国家へ忠誠

という戦前のクソ神国思想の題材にされたわけですよ。

 

今で言うところの真田信繁(史実)と幸村(創作英雄)な感じじゃないかと。

 

遂に前方に主郭が見えてきましたぞ。

 

山中御殿まで580m

 

 

奥書院平

 

忠魂碑

この辺りに奥書院が建っていたのではなかろうか

 

やたらと看板が増えてきましたw

山中御殿まで420m、遂に本丸までの文字が!

960mかぁ…

 

ルート分岐

通路と化してますが

これ、たぶん堀切跡ですよね。

 

花ノ壇まであと少し

茶屋があるそうなので一息つけるはず。

 

堀切道

 

あと100m

 

千畳平まで登り切ってしまえばあとは緩やかな傾斜が続くだけで

最後のこの階段が多少キツイ程度でしょうか。

しかし、本日は10月末にも関わらず気温が25℃近くあり暑い!!

 

花ノ壇とその先に主郭。

着いたーーーーーー

あちーーーーーー

一服したーーーーーい

 

こちらが前回スルーしていた復元された主屋と侍所。

 

発掘調査をもとに忠実に復元されているそうですよ。

 

 

因みに花がたくさん植えられていたことから花ノ壇と名付け られたそうな。

 

さーて、一服しながら富田城攻略の作戦でも立てましょうか。

 

ここにも麒麟がいるがありましたw

 

店内

 

尼子戦記

 

 

クソあちーのでアイスコーヒーでも飲もうと思ったらアイス無いそうですw

仕方ないのでホットコーヒー

 

真下に駐車場。

前回、クルマで登って来た場所があれだ。

 

半分が林に埋まってる例の全長150mの土塁もよく見える。

 

そして主郭。

中央に見えるジグザグ道が最大の難関、七曲り。

ここで退くか、それとも攻めるか。

難攻不落の月山富田城主郭を前に

恵瓊殿(トシゾー教授)と元春殿(又五郎殿)と作戦会議を行う。

 

満場一致でここまで来たなら攻め落とすべきと決まる。

行きますぞ恵瓊殿!元春殿!

何故か知らんけど毛利軍になってしまった我ら。

あれ…おかしいな…尼子側だったはずなんだけどなぁ…

 

 

ここからた山中御殿平なるんだろか

前回、中心側から見てたのがこの辺り。

 

 
堀切を挟んで花ノ壇

 

 

完全なる野面石垣。

尼子時代は完全な中世城郭で石垣類は堀尾吉晴による改修時のもの。

 

 

 

 

ここから山中御殿平の中心部

ようやくスタート地点に来たかなとw

 

写真撮りまくってる間に恵瓊殿と元春殿とはぐれてしまったのですが

これを見ると前方の門跡の間に二人の姿がw

そっちから登ってったんかい。

 

ここに来るまでは土塁の一部に石垣が使用されている程度でしたが

この辺りから本格的な近世城郭の姿に。

 

井戸跡

 

大手門跡

大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口だったそうですが

現在の入り口は真逆の位置で、こちらは月山軍用道へと繋がるのみ。

 

月山軍用道から本丸へ登れるとか、本丸へは七曲りからしか登れないとか

気になったので登ってみる。

因みに先ほど恵瓊殿と元春殿が登っていったのはここから。

 

本丸まで520m

続いている様ですね。

 

途中に親子観音

長らく堀尾騒動の首謀者である堀尾河内守親子の墓所と思われていたが

堀尾吉晴の従弟、堀尾但馬の墓所の可能性が高いそうです。

 

あ…

七曲りと合流しましたw

そういう事ね。

まだ山中御殿平を全て見ていないので一旦降りる。

七曲りから570m、軍用道から610mだそうです。

 

前回歩いたのがこの辺りのみなんですよねぇ…

 

クルマで登るルートの入口。

現在はこちらが正面なんだろうけど

元々は搦手側になるのかね。

 

こちら側も完全スルーでしたからね前回は。

 

石垣の下に例の土塁

 

 

こちらが狭間塀跡

その名の通り矢狭間と鉄砲狭間の塀が建っていたのでしょう。

 

塩谷口

 

 

外は見事な竹林

 

この先も道は続いてるそうで

塩谷口からも登城できるそうです。完全な山道だそうですが。

 

 

 

草刈師のおっちゃんが尼子の紋を刈ってました。

石垣の上から撮ったので角度的に隅立て四つ目紋になってしまった。

※尼子氏は平四つ目結紋↓

さて、遂に七曲りへ挑戦する時が来たようだ。

続く