今回はタイトルの如く。

「好きな武将は真田幸村です!(ドヤァ)」って言っちゃうようなにわかは絶対に行かないマニアックコースですぜ。

 

…なのですが

まずは前回のに纏めようと思ったけど容量の関係で炙れたヤツ。

 

三度、古代へ遡りまして

上田市下之郷「いにしえの丘古代公園」

 

塚穴原第1号古墳

発掘調査済ですが

石室には入れませぬ…

 

塚穴原第2号古墳

こちらは未発掘。

天井石抜かれて中央部が崩落してる状態だそうな。

副葬品が眠っている可能性があるそうだが

天井石が抜かれてるという事は盗掘に遭ってる気がする…

 

かつては3号墳、4号墳も存在していたそうですが崩壊しまったとか。

 

こちらも墳丘と思いきやどうも関係ないらしいw

 

 

手前に2号墳、奥に1号墳

 

他田塚古墳

こちらが下之郷古墳群の中心的な古墳の1基で、

塩田平一帯を治めた豪族のものではないかとの事。

石室入れんのでズームでw

奥行7mあるそうです。

 

墳丘には小石が残っているが当時のものかは不明。

以上、いにしえの丘古代公園でした。

 

真田神社で回したおみくじガチャが二つとも大吉でした。

いや、これたぶん全部大吉なんじゃねw

後ろの槍はトイズキャビン社より2018年発売、2020年に再販されてたという戦国の槍。

当時、こんなものが出てるとは知らずもう手に入らんだろなと思っていたところ

観光会館に普通に置いてましたw

真田十文字に人間無骨とこれまたなんという引きの良さか。

いや、むしろハズレを回避したというべきか…

残るラインナップが

片鎌槍

御手杵

蜻蛉切

日本号

これを見て普通に考えたら天下三槍だろ!ってなると思うんですが…

三槍すべて穂先がとてつもなく短い。

片鎌槍、十文字槍と長さがほぼ同じの蜻蛉切

蜻蛉切よりもやや長い日本号

日本号よりもやや長い御手杵

九度山の幸村所用と言われる十文字槍が約30cm

清正所用の片鎌槍も人間無骨も約38cm

蜻蛉切43.7cm

日本号79.2cm

御手杵138cm

蜻蛉切がギリギリ許容するとしてもに日本号と御手杵…これはアカンでしょ。

 

 

一夜明けまして五日目。

車窓からの上田城

今日の上田城は憎たらしいくらいに晴れてやがったぜ畜生め

 

それでは真田マニアックコースへと向かいましょうか。

本日は本当の意味での真田三代でございますよ。

上田城と幸隆はほぼ関りないですからな。

 

まずはこちらから

曹洞宗 大安山良泉禅寺

天正三年(1575年)矢沢薩摩守頼綱が創立し、矢沢家の菩提寺とします。

真田氏の松代入封に矢沢氏も当然ついて行ったので

寛文九年(1669年)以降は矢沢仙石氏の菩提寺となっています。

 

何故かドラえもんw

 

山門

 

境内には石垣が

詳細不明ですが矢沢城の石垣の一部なんでしょうかね?

 

こちらが矢澤薩摩守一族之墓所

どうも元々は矢氏だったらしい。

 

矢沢綱頼は幸隆の実弟で昌幸が最も頼りにしていた人物。

1597年に80歳で亡くなっており、

もし存命だったなら3年後の関ヶ原の際にはどちらに付いたのかは気になるところ。

昌幸の命で信之に付けたような気もしますがね。

幼少期の信幸と幸村を教育したのが頼綱と言われており、

兄弟敵味方に分かれても互いの身を案じていたのは
一重に頼綱の教育によるところだったのではないでしょうか。
親兄弟と言えど敵味方に分かれれば容赦なく…というのが戦国の常。
 

嫡男の矢沢但馬守頼康(三十郎)も真田家について松代へ入封しますが

死去後はこちらへ埋葬されています。

真田信之個人として最も信頼していたのが鈴木右近ならば、

真田伊豆守として最も信頼していたのが矢沢頼康と小山田茂誠の二人。

大坂の陣の際もこの二人に信吉・信政の補佐を任せています。

 

登ってくと山頂が矢沢城だそうです。

結構な距離がありそうで全く見えませんがw

以上、良泉寺でした。

 

 

続いて

真田氏発祥の地へやって来ましたよ。

 

真田の郷

 

御屋敷公園 真田氏歴史館

なんか様子がおかしい…

 

ぬ…

本日は終了しました。

 

なん…だと…!?

 

あ…休館日毎週火曜日…

本日、火曜日でございますがな

 

マジかーーーーー

 

ここまで来ておいて悔しいので窓から内部を…

 

昨秋の吉田城といい、さすが懲りました。

今後は定休日を下調べしてから予定を組むこと。

その名の通り隣接の公園が真田氏屋敷跡だそうですが

なんかもうええわとそのままスルー。

 

続いてこちら

真田氏本城跡

上田城が築城されるまで真田氏の本拠だったとされ、

城主は幸隆、信綱、昌幸の本当の意味での三代。

先程の御屋敷公園も真田本城の一角でして平時の政務は麓の真田氏屋敷で、

こちらの本城跡は戦時の際の山城として機能。

 

看板を見逃してたのかもしれませんが、この辺りがおそらく三の郭。

天文年間に真田幸綱(幸隆)によって築城されたとされていますが、

発掘調査で鎌倉時代から使用されていた痕跡が見つかったそうですよ。

 

堀切跡

ほとんど自然に帰ってましてうっすらと溝が確認できるくらい。

 

 

こちらも堀切跡だが

草むらでわからんw

 

この先の曲輪がおそらく二の郭。

 

土塁の上から

 

 

土塁の下に広がるこちらが段郭になるのかな

真ん中から少々右に見える台形の山が砥石城。

 

土塁から先ほどの三の郭。

あれだな…

歴史館が閉まっていたので真田本城の詳細な情報が得られなかったのが痛い。

 

 

堀切跡

こちらも僅かに溝が見えるかな。

 

 

 

上から見ると中世城郭らしい段曲輪になっていることがよくわかる。

 

こちらが

本郭の土塁

 

本郭の土塁自体が段曲輪になってまして

中腹に建つ碑

 

ここから本郭

守備のためと思われる土塁が積んでまして

 

その下には先ほどの段曲輪

段曲輪と呼んでいいのかわからん規模だけどw

そこにも兵を配置し、本郭へ攻め寄せる敵を撃退したんでしょうな。

 

 

 

年季が入っててよく読めぬ…

真田本城は標高890m

正面の雲がかかっている辺りが松尾古城主郭。実に1033m

 

反対側から二の郭へ。

折角なので段郭へ降りて戻ります。

 

 

こちらは長谷寺方面

写真じゃ微塵も伝わらんが肉眼では麓が少しだけ見え、標高890mという高さがよくわかりました。

今でこそ山頂に駐車場があるけど、当時の人はこれを歩いて登ったわけですよ…

 

達磨堂参道入口

ガチの登山道へと続いているそうです。

当然スルーw

 

真田氏本城からは矢沢城も見えるそうなのですがわからんかった…

真田丸ブームがピークの頃は本城にも結構人が来ていたそうですね。

幸村がここで過ごした期間は少年期までなんだがね。

 

続いて、その長谷寺へ。

天文十六年(1547年)、真田幸隆が創建した真田氏の菩提寺。

第二次上田合戦の際に戦火に巻き込まれて焼失してしまったそうです。

後に真田家の松代入封とともに長国寺を開山し、

長谷寺は長国寺の末寺となります。

 

頭上注意

懲りない馬鹿

 

奥には庭園があり

長ッ!!

 

更に進みまして

こちら

 

真田幸隆・昌幸の墓

 

 

この様にゲートで近寄れないので

隙間から

左から

恭雲院(幸隆夫人)

真田幸隆

真田昌幸

昌幸の葬儀は不明な点が多く

墓所と伝わるのが松代の長国寺だが、

この長谷寺にも納骨された記録があり、

九度山の真田庵にも昌幸の墓所が存在する。

 

左右の灯篭には

これでもかってくらいに六文銭がw

大河効果で父上の一般的知名度も飛躍的に上昇したからなぁ。

以上、長国寺でした。

 

続いて、おそらく今回で一番マニアック

角間

 

 

日向畑遺跡入口

 

階段など無い。自力で上がれということかw

 

松尾城跡

はい。さっき真田本城から見た標高1033m松尾城です。

 

珍しい平たい石垣だが

真田時代の松尾城には石垣は用いられていないので

後世によるものかなと。

 

矢盾に消えかかった六文銭

そして熊出没注意の貼り紙。

北海道にはヒグマという恐ろしい化物が生息しているので

本州の熊と聞いてもあまり危機感覚えないんだけど、

危険なものは危険なので注意しましょう。

 

ツキノワグマくらいなら刀で……

 

史跡 日向畑遺跡

この辺りに真田氏最初の館と菩提所があったと推定されているそうで

これらが真田幸隆以前の真田氏に関係すると思われる供養塔。

この辺りは長い年月の間に畑となっており、

畑からこれらの五輪塔と宝篋印塔が発見されたそうです。

つまり日向畑とはそういう事か。

この先に松尾山主郭への山道ですが…

主郭の標高1033mからさらに登った標高1370mに遠見番所があるそうです。

当然、そんなもの登る気力は無いw

真田氏館跡を見て満足したので引き返しますw

 

配管の上に橋

これ、恐ろしくて下見れないヤツ

 

水が凄い音立てながら流れてましたw

 

続いて大柏山信綱禅寺

創建は不詳で室町時代とされ、横尾氏滅亡後に真田信綱が寺を打越に移し、大柏山打越寺と改称。 

信綱戦死後、昌幸が兄・信綱の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改称。

 

ご丁寧に長い階段ですw

 

 

本堂

 

鯱に六文銭と長国寺と同じ仕様です。

 

信綱禅寺

 

しかし、探せど探せど目的のものは見当たらず…

こちら、パイロンが立ってるので立ち入り禁止なのかと思いきや

車両通行止めなだけで人は歩いて良いそうですw

なんだよ!紛らわしい!最初からここだと思ってたんだよ!!

 

ご丁寧に長い坂道の先

真田信綱の墓

弟の昌輝の墓も。

 

真田信綱、真田昌輝夫妻の墓

 

 

 

滋野信綱公配某氏居墓

 

真田源太左衛門尉信綱公墓

 

真田兵部少輔昌輝夫妻之墓

表の看板に信綱夫婦と思いっ切り書いてましたけど昌輝夫婦です。

この寺の宝物館には信綱所用の陣羽織が収蔵されておりまして、

信綱討死の際には家臣がこの羽織に首を包んで敵に奪われない様、墓所まで運んだというもの。

しかし、宝物館は何年も前から閉めているそうでお目にかかれませんでした。

 

本日の昼食

 

続いて、米山城

 

米山城から砥石城まで歩いて20分ほどだそうですが

まあ、行けるだけ行きましょうかと。

 

砥石・米山城址

山道なめんなよ!ってことかw

 

門が…

いや、ちょっと待て…

大量の虫がブンブン飛んでましてこれ以上進めんわ!!

 

門に登る又五郎氏とその下にはトシゾー教授。

よく行ったな…

あまりにも虫が多すぎて無理だと悟り引き返す。

文字通り門前払いでw

 

道中の砥石城址入口。

登らずとも麓だけでもと思っていたが

 

急遽、予定変更。

続く。