続・上田城。
上田市立博物館からの二の丸。
石垣の上に見えるのが平和の鐘
上田城下にあったものが紆余曲折を経て城内に移ったそうですが
第二次世界大戦時の金属類回収令にて鐘は持って行かれてしまい昭和47年の復元だそうです。
ということは鐘楼は当時のものなんだろか…?
金属類回収令で嫌なこと思い出した…
戦局の激化による金属資源不足で一般庶民の持つ金属類は根こそぎ持ってかれたそうでして
我が家にあった刀も槍も全て持って行かれたそうです。
そして甲冑は火事で焼けたとか。
ああ、勿体ない…
二の丸橋
順番が逆だろうって話ですがw
こちら上田市観光会館一階にある幸村の像
駅前の像と同じヤツですね。
駅前のはよく見えなかったんだけど上田城時代ということで顔が若い。
この上田市観光会館の辺りが当時の真田屋敷があった場所なんじゃないかと思われる。
続いて二階
なんと真田丸コーナーですよ。
大河仕様の模造太刀ですが、
亜鉛合金の太刀金具にメッキでテカテカの太鼓金具に
ゴムの様な太鼓革に化繊の柄巻と太刀緒でかなり微妙…
しかし!!
こちら!!
真田丸最終決戦仕様 真田幸村所用鹿角赤備具足!!
その隣には昌幸から幸村へと受け継がれた毛皮の羽織!!
素晴らしい再現度です。画面から見た印象では本物と全く遜色ないのでは。
これ、ドラマで最高にカッコ良かったんですよね。
胴の銀の意匠がちょっとフィクションだよなぁと当時は思ってたのですが
実はこれ、モデルがありまして
大阪城天守蔵の真田幸村所用と伝わる鉄二枚胴具足。
これの胴の意匠が南蛮胴風のつくりでモデルにしたんだろうという事がよくわかります。
大坂城蔵というだけで幸村所用に信憑性が増すという。
当然、討死時に着用していた物ではないでしょうけど
幸村クラスの大将ならば甲冑の一つや二つ持ってるでしょうし、スペアの方だったのではと。
そして討死時に着用していたのではないかと思われるのが以下。
幸村が首を討たせたという福井藩士の西尾宗次の子孫の家から幸村着用とされる兜が流出、
同じく福井の孝顕寺からは幸村首塚と伝わる場所から幸村の鎧袖が出てきているとか。
因みにこの首塚に首はなく、真田一族に奪い返されるのを警戒して欺くための物だったとか。
よく見ると六文銭ののぼりの後ろに槍の柄のようなものが…
実は十文字槍も展示されていたそうです。
いやいやいや、スポットライト当たってないし気付かんわw
いつまでも記憶に残ってるのが
真田丸最終回にて、これを着た堺雅人氏の鬼気迫る形相。
普段の穏やかな氏の表情から一変してまさに別人如く。
役者さんってすげーなと感心して見てました。
そして最期はいつもの表情に戻るというね。
真田幸村公 赤備之具足
これ、ブロックなんです。
高さ125cm
ダイヤブロック6300個
松江でも巨大なLEGOの松江城を見ましたけどホント凄い。
少年期にブロックで遊び倒し、現在進行形で甥っ子・姪っ子とブロックで遊んでいる私にはこの凄さが人一倍わかるw
真田三代の甲冑。
右にトイレというのがとてつもなくシュールw
これは二の丸にあった顔はめパネルのヤツのモデルかと思ったら微妙に違った。
しかし、真田丸仕様のがあまりにも素晴らしいのでちょっとしょぼく見える…(失礼)
再び城内へ戻り北虎口側から搦手側へ。
前々回、西虎口側は後ほどとか書いた気がするが
そういやそっち側行ってなかったわw
真田時代からの数少ない遺構の内堀。
草木が生い茂ってよくわからんが真ん中からやや左辺りの土が見える箇所に隅欠が確認できる
わかり難いけどこれが隅欠
上田招魂社
これだ!よくわかる隅欠!
土塁の下部が垂直に削られてるのがおわかりいただけるだろうか。
北東の方角は鬼が出入りする鬼門と忌み嫌われ、
この隅欠を鬼門除けとしているそうです。
年季の入った野球場のゲート
これが噂の外堀跡をそのまま利用したという上田城跡公園野球場か!
因みにこちらのゲートからは球場に入れませんでしたw
イマイチ形がわからんかったので
振り返って二の丸西虎口。
コンクリート製の橋こそ建っているが、この辺りは地形が真田時代の絵図そのままだったり。
橋から左に空堀、右に外堀。
こちらが新ゲート
が、入りませんでしたw
球場=外堀跡と言っても過言ではないので全体図でも撮っておくべきだったな失敗したわ…
こちら上田城捨堀(溜池)跡、現在はオール芝生のかなり良い感じのグラウンド。
こちら、大会とかに使う市営のグラウンドかと思ったら
なんと長野県上田高校の第2グラウンドだそうです。
なんて羨ましい環境で練習できる高校生たちなんだ…
因みに私は小学生時代はサッカー少年で、社会人サッカーも2年くらいやっていた。
以上、この辺りまでが上田城の城郭遺構でした。
本来は昌幸の城なんだけど
市の幸村ゴリ推しに上田が活躍の場ではない十勇士もゴリ推しで
昌幸の存在がイマイチ薄い。
そして信之の名は資料等に最低限、意図的に名前を出さない様にしている感がありましたね。
幸村の名を極力伏せている感のあった松代との逆転現象。
これはアレかね。
信之は松代が、幸村は上田がそれぞれPRするので
お互いの推しの名を使う事は極力控えましょうという紳士協定なんじゃないでしょうかね。
しかし、歴史好きとしては上田は幸村ではなく昌幸をもっとPRしてほしいところ。
幸村の活躍はやはり大坂の陣なわけですよ。
しばらく道なりに歩きまして
小松姫の墓
仙石家霊廟
芳泉寺
紛らわしいけど上田は芳泉寺、松代にあるのは法泉寺であるw
上田築城の際に昌幸が全称院を移設させ常福寺と号したのが始まりで
関ヶ原合戦後、信之が上田城主となった際に真田氏の菩提寺としたそうです。
小松殿は上田時代に亡くなっているので墓がこちらにあるのはその為でしょう。
真田家入封後、仙石忠政が上田藩主になった際に小諸の宝仙寺を移し芳泉寺としたそうです。
天狗石と呼ばれる巨大な石
形かッ!この形かッ!!
山門
徳川の三葉葵紋、真田の六連銭紋、仙石の永楽銭紋
こちらが本堂
こちらは瓦に三葉葵紋
扉には六連銭紋に
三葉葵紋
小松姫の墓
しかし、前にも言った通り小松殿が正しいと思うので
当ブログでは小松殿で統一させていただく。
婿選びの逸話は有名だが、後世の創作でしょうね。
家康の養女とした建前はあるものの一家臣に過ぎない本多家の娘がこんな事をできるとは思えん。
実際は家康、忠勝、昌幸の話し合いの末に決まっています。
昌幸追い払いも有名な話だが、大事な後日談が書いていないぞ。
この後日、正覚寺にいる昌幸を小松殿が子供たちを連れて尋ね、
望み通りに孫との対面させたというんだからホントに凄い女性ですよ。
こちらが小松殿の墓所。
少し切れてしまったが右の石灯篭は信吉寄進のものだそうです。
前にも書きましたが信吉の生母は長らく小松殿とされていましたが
近年まで存在が明らかになった清音院殿が生母なんですよね。
実は信政の寄進だったりして。
宝篋印塔の上部を撮ると
タイミングよくツバメが飛んでくるw
天気もよろしくなく
よく読めなかった…
続いて
仙石家霊廟
仙石政俊の霊廟
仙石秀久、忠政の霊廟
これ実は扉開けて良いそうですが勝手に開けちゃダメなもんだと思い触れずにいましたw
中に宝篋印塔が鎮座しているそうです。
現在の上田城の姿も城下町を作ったのも仙石氏なわけですが
真田の圧倒的な存在の影に隠れてしまっている…
本日の昼食
普通に美味しいんですがねぇ…
昨日の蕎麦が美味すぎたため…
駐車場まで戻る道中で上田城門移築場所をそうとは知らずに歩いていたみたいですw
上田城を離れまして、信濃国分寺資料館へ。
こちら館内撮影禁止のため割愛。
続いて資料館ではない信濃国分寺。
こちらも真田を語る上で非常に重要な地なわけですよ。
鐘楼
享和元年(1801) 建立
こちらが信濃国分寺本堂
薬師堂とも呼ばれ
文政十二年(1829)に発願、天保十一年(1840)起工、万延元年(1860)竣工
実に発願から三十余年を費やして完成したという建物。
信濃国分寺三重塔
建久8(1197)年に源頼朝が善光寺参詣の帰途、
寺の衰退を憂い塔の復興を命じたそうです。
少なくとも建久8年以前から存在しているということ。
それにしても頼朝かよ…
身内殺しに加えて御先祖の恨みがあるのでどうにもコイツは好きになれん…
旧国宝、現重文なわけですが…
昭和の全面解体修理が原因だったんでしょうかね…
文化財の保存、そして後世へ残す為には定期的なメンテナンスは必要不可欠なわけで
数10年周期での大幅な解体修理も避けて通れない道だと思うんだけど
解体工事を行ったから国宝から格下げしますはどうかと思うんだよ。
松本城の埋橋も然り。
真田 徳川 会見之地碑
そうなんです。この国分寺が第二次上田合戦の前に徳川と真田で会見が行われた地なんです。
こちらにも記述されていますが「どこで会見が行われたか」までは伝わっていないそうですが
真田太平記では本堂で行われたんでしたっけ
徳川方から使者は真田信之と義弟・本多忠政(忠勝嫡男)
信之と昌幸親子が最初に対峙したのがここだったわけです。
おそらく信之の次男・信政の名は信之の信と忠政の政から取られたのでしょうな。
観音堂
観音堂の名の通り…
全部で100体だそうですよ。
以上、信濃国分寺でした。
ちょっと一日遡りまして…
2022年6月6日。
崇福山安楽寺
実は坂城町の鉄の展示館から上田市へ移動する前に立ち寄っていたのです。
…が、しかし
時刻は既に17時を過ぎてましてね。
閉鎖時間は既に過ぎているということで引き返したわけです。
そして本日2022年6月7日。
本日は余裕を持ってやって来ましたよ!
重要文化財 木造惟仙和尚坐像・木造恵仁和尚坐像
だが閉まっているw
目的はこれ。
だが、近すぎるw
国宝 八角三重塔
人が捌けた瞬間を狙った一枚。
さすが国宝という事でこの天気にも関わらず結構な人が来てました。
そして上から眺められるんですよ。
三重塔を上から眺められるのはなかなか珍しいと思う。
更には接近して
屋根の年季の入り具合まで見えるという。
下から見上げてる人が多かったけど上から見下ろすのもまた良し。
上田市指定文化財 経蔵・輪蔵
だが、閉まっているw
隙間からw
ネットの間にレンズねじ込めが良かったな…
以上、崇福山安楽寺でした。
真田氏と関係がない…というわけでもなく
こちらは別所温泉街のすぐ側なんです。
真田太平記では幸村が別所温泉の湯に入っており、
幸村の隠し湯とも言われているそうです。
…ということで温泉に入らないにしても
せめて足湯だけでもという事で
幸村が浸かったかもしれない湯に(足だけ)入ってきました。
しかし、足だとはいえ全身かなり暖かくなり、
本日も歩き続けて酷使した足が驚くほどに軽い。
足だけでも効能があるんだなぁと感心しました。
さて、疲労も吹っ飛んだし本日もあと僅かだが次へ行きましょうか。
以上、真田巡りでした。














































































































