松代城 三の丸跡。

この辺り三ヶ月堀だった様でその先に丸馬出。

写真左側の草むらに馬出跡が僅かに残っているそうです。

位置的に曲輪の端か、そこへ到る道の遺構ではないでしょうかね。

馬出中心部はおそらく手前の電柱あたり。

 

城の近辺に駐車場は無いと思って宝物館から歩いてきたんですが

写真右側のスペースが駐車場でした。

あったのかよw

 

歩いて戻りますw

道中にあった信之400年のぼり。

 

戻りました。

今回はこちら、真田宝物館へ。

この周辺も元は城の三の丸で、宝物館北側の道路が三の堀だった模様。

 

こちらが2020年6月開催中の企画展。

信之入部400年の節目ということで。

 

この手の博物館は撮影禁止のところが多いんですが、

真田宝物館は一部を除いて撮影OKです。素晴らしい。

 

まだ展示室へ到る通路ですw

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから展示室

 

東信濃の土豪時代。

家紋

ピンボケしてもうた!!

世間一般では完全に六連銭(六文銭)のイメージが定着してますけど

実は信之や真田三代の時代には戦時にしか使用していません。

最早説明不要なくらい有名ですが三途の川の渡し賃が六銭。

戦へ赴く決死の覚悟という意味合いがあったそうです。

しかし、平時には縁起が悪いという事で普段は結雁金を使用。

めでたい事があった時は洲浜や割洲浜を使用。

 

時代が下るにつれて六文銭の使用頻度が高くなり他の紋の使用されなくなって行ったそうです。

六文銭を使い気風だけは戦国時代という意図があったのか

実に平和ボケの江戸時代らしいなと…

 

因みに大阪の陣での真田幸村は真田本家に迷惑がかかるということで、

大阪の陣では六文銭は一切使用していません。

創作物では必ず六文銭・鹿角の赤備具足・朱塗りの十文字槍を使用し、

最早三種の神器と化してますがw

おそらく、いずれも使用していません。

 

真田家の系図

こちらは江戸時代に書かれたものだそうです。

幸隆おじいちゃんは「ゆきたか」の名で広く知られるが

確実な一次資料には真田幸綱の名で記述されているそうです。

幸隆の名は出家後の号であるという説が有力だとか。

ゆきたか → こうりゅう

が正しいんだとか。

主君と同じく通字を用いた号だったのでしょうかね。

武田晴信(はるのぶ)→ 徳栄軒信玄(しんげん)

真田幸綱(ゆきつな)→ 一徳斎幸隆(こうりゅう)

 

武田家臣時代

これが噂の…

真田信綱所用、青江の大太刀。

刀工は青江貞次で刃長103.3cm、重量1.5kgという剛刀。

茎も長いのでこの長大さが微塵も伝わりませんがw

そして、これだけの長さがありながら重さが1.5kg。

これが新々刀や現代刀ならば80cm前後で1.5kgを超える物が当たり前だったりする。

つまりは後の時代に比べて鉄質が良く、よく鍛えられているということ。

目釘穴が二つあるので多少は摺り上げているのでしょうかね。

在銘ですが、言われないとわからないくらいに擦れています。

 

地金は縮緬肌との事だが

杢目まじりの板目に見えましたがね。

照明が暗くてなぁ…

 

こちらが刃こぼれ箇所。

真田信綱はこの大太刀を振るって長篠の戦いで討死しています。

これはその時の傷痕ではないでしょうか。

 

南北朝らしい大切先。

よく知られる青江貞次は鎌倉初期の刀工で時代が合わない。

同名工が数代続く後代の貞次じゃないかなと。

 

長篠の戦いで武田家重臣の多くが討死しますが、

その中には真田信綱・昌輝の兄弟も。

真田家を断絶させてはマズイということで

武田勝頼は武藤家を継いでいた喜兵衛尉昌幸を呼び戻します。

突然転がり込んできた真田の家督相続。

つまりは真田昌幸。

もしかすると信綱が存命していれば武藤信之、武藤幸村、武藤丸になっていたかもしれんわけですよw

 

武田滅亡~徳川与力時代

 

真田昌幸書状

矢沢頼綱へ宛てた書状。

徳川、北条、羽柴で勝手に自分の領地の話を決められて真田としてはいい迷惑な話。

 

豊臣氏奉行連署状

豊臣五奉行の連署で、伏見の真田屋敷に届いたもの。

この翌日に秀吉が死去したというんだから凄い話だ。

 

軍配

伝・昌幸所用だが、幸貫所用という記述もある…

昌幸の時代と幸貫の時代差は実に200年…

 

真田本家・真田三代の分岐点

関ヶ原では東軍に信之、西軍に昌幸・幸村

大阪では幕府方に信吉・信政、大坂方に幸村・幸昌(大助)

最早、説明不要w

 

真田信吉の書状

大阪の陣では信之は病欠。名代として息子の信吉・信政が出陣。

叔父の本多忠朝(忠勝の次男)の隊に加わりますが、

勢いに乗る毛利勝永隊と真正面からぶつかり忠朝は奮戦するも討死してしまいます。

忠朝は冬の陣で酒による敗退をやらかしています。

汚名返上のため先鋒を務め、

二度と外さぬと兜の結び緒の端を切り、決死の覚悟で臨んでいたとか。

 

毛利勝永にはボコられましたが、後の総攻撃では真田隊も多くの武功を立てたそうです。

 

大阪城図

こちらは出丸に真田左衛門佐の記述があるため冬の陣と伝わる図。

結局のところ和睦となりますが、

幕府軍総勢20万をもってしても大坂城内には一歩も侵入できなかったというね。

秀吉自慢の当時の日本最強の総構え、

唯一の弱点だった箇所には真田丸(丸馬出だったそうな。甲州流築城術の継承)

いやぁ…無理だわこれ…と当時の兵たちは言った事だろうw

 

松代藩時代

本多忠義書状

信之は93歳という驚くほどの長寿でしたが壮年以降は病に伏せることが多かった。

信之の寿命は本来100を超えるはずが父と弟と嫁の所為で寿命が縮まり93歳までしか生きられなかったと一部では囁かれているw

小松殿の鬼嫁エピソードが色々ありますけど、ほとんど創作ですよあれ。

本当は才色兼備の賢夫人。

 

矢沢家伝来の盃

 

信之没後二百年の遠忌法要にあたり矢沢家が拝領した物だそうです。

 

 

 

歴代藩主と真田三代

 

信之の長男・信吉、信政ともども長らく生母は小松殿とされていましたが

信吉の本当の生母は清音院殿。近年まで存在が明らかにされていなかったとか。

池波正太郎の真田太平記でも信吉は小松殿の実子とされていますし。

後年の真田家の家記では清音院殿の存在が抹消され、信吉も小松殿の子とされていたそうです。

そんな信吉ですが、松代藩を継ぐはずが父に先立ち…

 

さっさと隠居したいのに幕府から許可下りずに隠居できない信之。

さっさと家督譲れやと焦る信政。ようやく家督を継ぐも二年で死去。

信吉の子・信利との幕府や他家も巻き込むお家騒動勃発。

後に信利は沼田藩として独立しますが、盛大にやらかし取り潰されますw

松代藩は信政の子・幸道が家督を継ぎますが、まだ2歳です。

ようやく隠居出来たかと思えば後見のため再び表舞台に立たされる90歳を超えた信之。

信之没後はちょろいと思われたのか幕府の嫌がらせや災害によって財政は悪化。

跡を継いだ信弘はその煽りからひたすら倹約生活を送り

続く信安も倹約に徹するが…原八郎五郎を抜擢し藩政改革に当てるが失敗。

続いて田村半右衛門を登用し財政再建に当てるがことごとく失敗し、財政は極度に悪化。

とんでもない置き土産を残された幸弘。

最早破綻寸前だったところ恩田木工民親を藩財政再建に当て、

これによって藩士・領民の意識を改革し、財政は窮地は脱したとか。

男子に恵まれなかった幸弘は井伊家から幸専を養子に迎え家督を相続。

幸専もまた男子に恵まれず久松松平家から幸貫を養子に迎え家督を相続。

幸貫は老中を務めて天保の改革の一翼を担い、江戸後期の名君の一人に数えられています。

幸貫の長子・幸良は養子に入る前から生まれていたため真田の血は引いておらず、

血筋を求めて松平忠馮に嫁いだ幸専の妹の子・幸忠を養子に迎えますが15歳で早世。

ここで真田本家の信之から続く血統は途切れてしまいます。

幸良は父に先立ち、その子の幸教が家督を相続。

幸教は病弱であったため伊達家より幸民を迎えて家督を相続。

 

こうしてみると信之の時代から波乱に満ちているのですが…

幾度となく大ピンチに陥っているのに明治まで家が残ったというんだから凄いわな。

 

続・松代藩時代

真田幸教の宿という意味だそうです。

 

参勤交代の道中の記。

 

近世時代

 

幸教による花の丸御殿の図巻

 

 

 

 

 

文芸コーナー

 

こちら、幸貫作の香合だそうです。

このニワトリとかクオリティすごくないですか?

文人としても優れていた幸貫は芸術面にも秀でていた様だ。

 

こちらも

3点すべて幸貫作の掛け軸です。

 

幕末

 

台場の計画図と完成後の図面

 

 

 

 

明治維新後

フランス製マンソー銃

前装管打式なので幕末では既に旧式だったり。

 

岩倉という名を見ただけでイラッとくるわw

 

 

 

最後に何故か足軽具足。

 

 

 

佐久間象山コーナー

この人、写真も残ってるけど顔が怖いですはいw

 

松代焼コーナー

 

 

 

松代焼の六文銭入り湯飲みがラスト1だったので、折角なので購入していったのですが

翌日に訪れる上田市に大量に売っていたというね…

 

後半へ続く