多忙につき半月以上空いてしまいました・・・

 

さて、島根へ来て二日目のことです。

この日は一般公開演武の当日。

合間の空き時間に観光地を巡っていたのですが、

今回はここ。

月照寺。

歴代の松江藩主松平家墓所としての名所です。

10月9日の記事で後日アップと告知していましたが、これでようやく書けますw

 

・・・その前に、

今回のタイトルにある通り

超絶重大発表をさせていただきます。

 

 

「恐れ多くてとてもじゃないけど公には出せない」と仰せの通り、

我ら門下や一部の関係者しか知らない秘匿の事でしたが、

今回の旅を経て、遂に宗家がご決心なされました。

 

ここに公表しましょう。

こちらは不伝流開祖・伊東不伝から現宗家・戸田不伝 十四世までの家系図。

松江藩戸田家第七代当主・戸田 八右衛門藤馬は

松江藩第七代藩主・松平出羽守 治郷公の

次 男 な の で あ る

 

 

では、その血筋について。

松江藩戸田家六代目、戸田市左衛門忠誼は

奥女中を懐妊させた不昧公から御誕生御用係を命じられ、

寛政七年(1795年)に姫君が誕生し、五九姫と名付けられました。

 

その翌年、不昧公が奥女中を懐妊させたため、

同様の命が戸田忠誼へと下り、再び御誕生御用係を務めます。

そして、寛政八年(1796年)に若君が誕生しますが、松江藩には誕生以降の記録が皆無・・・

 

何らかの事情により、生まれてはいけない子だったのか?

それとも死産だったのか?

2018年11月現在、wikipedia不昧公の記事には男子(早世) と記載されていますが、死産だったという記録は残っておりません。

また、同じ寛政八年に国姫も誕生しており、双子だったのではないかとも考えられます。

古来、日本では畜生腹という蔑称で呼ばれ双子は縁起の悪いものとされていたのは有名な迷信。

中でも、男女の双子は「前世で心中した男女の生まれ変わり」とされ、特に忌み嫌われたと言われています。

(徳川家康や、その次男の結城秀康も双子であった説があり、その事実は秘匿とされていたとか。)

こういった経緯から記録が抹消されたと考えるのも想像に難しくありません。

ですが、確たる証拠は残っておらず、確かめる術もありません。

 

全ては闇の中に消え去ったといえますが、一つの驚くべき事例が残っています。

不昧公の御生母様である本寿院様が、抹消された若君と同年誕生の赤子を手元に引き取り、

まるで実子の如く寵愛しながら養育されたと伝わっております。

大名の御生母が他人の赤子を引き取り養育するなど絶対に有り得ない事としか言えず、

おそらくは血を分けた孫か、よほど本寿院様に近い存在の赤子だったのでしょう。

この赤子、建前上は松〇家(〇内は謎)次男、松〇辰蔵と記録されておりますが、

何らかの事情で本来の家名を名乗れずに別姓を名乗るといった事は珍しくなく、

(織田信長の甥、津田信澄は織田を名乗れず、一字変えて津田と名乗った等)

藩主の事情で幾らでも変えられてしまうのです。

おそらくは松平を名乗れず、一字変えて松〇と名乗ったと推測できます。

それらを裏付ける出来事として、本寿院様御臨終の際、

不昧公や親族が見守る中、十六歳になっていた辰蔵を御臨終の枕元へ呼ばせ、

「愛おしい、愛おしい、」と、その手と頬をさすりながら息を引き取ったと記録に残っております。

 

本寿院様没後、不昧公は辰蔵を側に仕えさせ、自ら藤馬と命名しました。

そして、戸田忠誼は嫡子が無いまま本寿院様の後を追うように他界。

当然、戸田家は断絶してしまいますが、不昧公は忠誼の臨終した日時を遅らせ、

松江藩戸田家七代目当主として藤馬に家督を継がせたと記録されています。

また、藤馬の家督相続による戸田家の石高加増、

名刀中の名刀である福岡一文字(現在、宗家が差している先祖伝来の一振)を下贈されたという記録も残っております。

その後、戸田家は代々藩主や若君の側役を務めながら、不伝流と共に藤馬の血筋は脈々と現代に受け継がれていたのでした。

 

島根県の学芸員殿からは「95%間違いない。残りの5%は不昧公に直接聞かなければわからない」

というお墨付きをいただいておりましたが、

今回の旅を経て、ここ月照寺に残る記録。

そして、後日訪れる事になる出雲大社にて権宮司さんのお話を聞き、

95%から100%の確信へ変わるに到ったのです。

 

不昧公の次男とされる戸田藤馬から数えて六代、

即ち、我らが師である現不伝流宗家

戸田不伝 十四世は

松平不昧公の子孫である

 

以上!!

超絶重大発表でした!!

 

そして、家系図に載っていますが、

千家と戸田家の関係については後日掲載させていただきます。

 

 

 

超絶すぎて全部出し切ってしまった感がありますが、旅の記録はここからが本番ですよw

早速不昧公の名が出てまいりました。

 

こういうのを見ると本当に不昧公は島根県民にとって絶対的存在なのだなと実感します。

 

 

何故、歴代藩主の墓所入り口に力士の碑があるのかなどとツッコんではいけない。

境内へ。

 

まずは当然、この御方ですよね。

松江藩初代藩主松平直政公。

最早説明不要の江戸幕府初代将軍 徳川家康公の孫にあたり、

福井藩初代藩主 結城秀康公の三男。

勇猛な武将でありながらも有能な政治家でもあり、様々な逸話が残っている御方。

 

 

 

 

 

 

 

 

院号:高真院

初代 松平直政(1601-1666)

 

 

続いて

早くもやって参りました。

境内の一番目立つ高い場所にこの御方が。

 

先祖の廟の前に立つ宗家。

 

そして、この直後・・・奇跡が起こる。

宗家が階段を上がると同時に

日没時の太陽が木陰から顔を覗かせる。

それは子孫が訪れるのをずっと待っていたかの如く。

太陽に照らされ、念願だった不昧公との対面を果たす宗家。

それは血統のもたらす奇跡。

 

宗家が階段を下りると日は沈んでしまったのです。

奇跡である!

まさに奇跡である!!

 

戒名:大円庵

七代 松平治郷(1751-1818)

 

 

 

 

これを奇跡と呼ばず何を奇跡と呼ぶのか。

素晴らしいものを目の辺りにさせていただきました。

 

 

後編へ続く。