「まじめ」を超えたい | Life is the very ART

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命こそ、人生こそ芸術作品だ!!

生きることを心から謳歌したいという願い、
やりたい放題生きると決めた

書を、文章を、落書きを、写真を、クルマやバイクを通じて
試行錯誤しながら考え、気づき、実践する
そんな「にんげん 伊藤 義之」のBlog

 

わたしは芸術の世界に身を置いていますが、

 

 

「まじめ」

 

 

と言われることが多いです。

特に作品制作において師匠から・・・

 

 

 

 

「まじめ」

 

 

この言葉、良い評価に聞こえる場合もあるでしょうが、

私のこの場合は、全くそうではなくて、

 

「遊び心が足りない」

「緩みがない」

「融通が効かない」

 

というような意味です。

 

 

 

わたしが書く作品に滲み出てきてしまうこの、

 

「まじめ」

 

わたし自身の精神性の深いところにある、

 

「何事につけきちんとしたい」

 

という刷り込みというか観念というか、

そういうものが無意識に働いて、

思考や体の動きを、そのように仕向ける・・・

 

日々書に向かい合って、

自分の内面にある、そういうものに気づきます。

 

 

 

果たしてそこで考えます。

 

 

「何事につけきちんとしたい」

 

という観念は、そんなによろしくないものか?

 

「きちんとしたい」と思うことがなければ、

何かしらにおいて中途半端なことをするなどしてしまい、

自分のみならず他者にまで余計な手間を取らせたり、

期日が決まっているようなものに間に合わせることをせず、

大切な機会を逸したりするかもしれないじゃないか・・・

 

 

ということは・・・

 

「きちんとしたい」

 

ということそのものはそれほどおかしなことでもなく、

よろしくないということはあるまい。

 

 

しかし書道の、

特に作品制作に於いては、うんざりするぐらい・・・

 

「まじめすぎる」

「きちんと書こうとしすぎている」

 

と言われ続けています。

 

 

 

ところで書の作品制作、特に私の師匠の教えにおいては、

原稿を徹底的に仕上げるように言われます。

 

アイデアが浮かんで、いきなり本番!

でうまくいくことは極めて稀である上に、

そのアイデアはまだまだ熟していないことの方が多く、

時間や手間を更にかけて吟味し、煮詰めることは必須。

 

原稿を通じて甘い部分を排除し、ブラッシュアップさせ、

九割がた完成まではそこで終わらせます。

 

 

そこからようやく原寸の作品制作になるわけですが、

まず第一の到達段階は・・・

 

「原稿に限りなく近付けること」

 

原稿は小さなサイズで作っていますが、

目を瞑っても原稿が書けるぐらいにしておけば、

たとえサイズが大きくなったとしても、

それほど原稿から外れてしまうことはありません。

 

 

しかし前述したように、原稿は「九割」。

 

筆という予測不可能な筆記具を使った芸術なので、

残り「一割」は、その予測不可能な部分がうまく力を貸してくれる・・・

 

そうなるようにこれまで培ってきたものをうまく引き出し、

美しい墨色が出るように墨を試行錯誤してつくり、

その偶然性、神からの手助けをいただけるようひたすら制作する・・・

 

作品制作に入っても、改めて原稿を見直して、

さらにその原稿を磨き上げて、改めて作品制作・・・

なんてこともしたりします。

 

 

でもわたしは・・・

 

「まじめ」

 

とお叱りをいただいてしまう。

 

 

私は「臨書」が好きですし、ある程度得意と自負しています。

 

「臨書」

 

とは、古典を模写し、

技術や空気感を体得するための日常的な練習方法ですが、

目の前に「古典」というわかりやすい見本というか正解というか、

それがあるので、安心して取り組めます。

 

 

そうやって、

日々の「臨書」という錬磨の果てに体得した(はずの)、

過去の名人たちの技術、空気感を活かして、

古典のエッセンスを我が身に染み込ませた状態の「わたし」が、

気持ちを乗せて制作するのが書における

 

「作品」

 

です。

 

 

なので、

体得した技術や空気感がありきなのは間違いないのですが、

それだけでは「臨書」と何も変わらないわけです。

 

そしてわたしは、作品を制作するときにも

どうにも「臨書」くさい。

 

 

作品には、練習とは違った「魅力」が欲しいわけです。

 

 

しかしこれが、

頭で考えはじめてしまうと、とても難しい。

 

曖昧さ、変な線や面白い滲みや掠れ、美しい墨色など、

どんなものでも「魅力」になりうる。

 

だから「正解」を求めて考えてしまうと、

どうにも身動きが取れなくなってしまい、

そうすると身動きできないので、

作品の面白みが更に表現しにくくなる・・・

 

 

 

師匠からは、

 

「あなたは芸術作品ではなく、字を書こうとしている」

 

ともよく言わます。

 

 

只の文字を芸術作品にまで高めようとすると・・・

 

眼に見える部分では、絵画的な要素や、音楽的な要素。

題材に対しては、文学的な要素や思想的な要素。

そして眼で確認しづらいものとしては、

雰囲気、オーラとでも言えばいいような、

その人の精神性が見えてくるような雰囲気。

 

そういうものを纏っていなくては、芸術にはなり得ません。

 

「考えるな感じろ」

 

をやっていくしかない。

 

感性、センス、美意識・・・

形のないものを研ぎ澄ませていくしかないのです。

技術的な鍛錬は当然行いながら。

 

 

 

言葉というのはすべからくそうですが、

 

「まじめ」

 

という言葉の表す範囲がそもそも曖昧なので、

文章で表現することが難しいですが、なにかしらの

 

「まじめ」

 

から外れたものが必要なのは間違いありません。

 

 

古典を知り、理解に努め、我が身に染み込ませる。

欠かすことのできない、重要なプロセスですが・・・

 

知る、ということを超えていかなくてはいけない

理解、というものを超えていかなくてはならない

 

鍛え上げられた直感

練り上げられた感性

 

 

そういうものが、どんな分野に於いても

 

新しいもの

今を超えていくもの

 

を表出してきたのだ、と思います。

 

 

 

底の見えない、芸術の道。

それを当然内包している、人の道。

 

あるはずもない底があることを期待するよりは、

行けるとこまで深くいってみようぜ!

 

そんな後先考えない、

頭を使わないことが大切。

 

そう感じています。

 

 

 

そして何とかそうあろうと

 

「まじめ」

 

に取り組もうとして・・・

 

あ、まじめ禁止!

と沼にハマるわけです。

 

 

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