伊賀市から甲賀市へ向かって、国道422号線を北上しています。

国道といっても、こんな感じが続きます。

 

 

開けた土地に着きました。正面に諏訪神社が鎮座されます。

 

 

 

 

鎮座地:三重県伊賀市丸柱 1545

 

諏訪神社を眺めたところに、伊賀焼伝統産業会館がありました。

 

 

産業会館の駐車場の横に登り窯があります。

 

 

登り窯は、古墳時代に日本に伝わっています。

子供のころ、遺跡を見たことがありますが、今でも使われているの

ですね。

 

 

鳥居の前に、正統の飛び出し坊や。

やっぱり、飛び出し坊やはこれがベスト。

 

 

 

 

昭和五十八年五月に奉納された狛犬。

 

    

 

 

左に手水舎。

 

 

左に参籠殿。

 

 

拝殿。

 

 

 

 

三重県神社庁HPの記事を転載します。

 

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旧社格 村社

 

主祭神

《主》健御名方命,

《配》大日霊貴命,天児屋根命,大山祇命

 

由緒

 

当社の創建は室町時代、元亀年間 ( 1570~1572 ) と伝え

られる。長野の諏訪大社から勧請して祀られたものなり。

本殿等は天正九年 ( 1581 ) 織田信長の伊賀侵攻の兵火

により焼失する。

現存する社殿は明治4年再建のものである。

 

宗旨祭

 

宗旨祭の起源は不詳であるが、元禄時代のころから約300年

丸柱に伝わる祭りである。

この祭りは氏子の結束を固めるのはもとより、師走の月に行われる

ので村内の繁栄と一年の農作物の豊穣に感謝する祭りである。

 

当日は戸主、長男はもとより村人全員が、神前に参集することにより

村人として認められるとされる。

明治22年市町制が実施され、丸柱村が誕生することになるが、

この頃には現存する宗旨祭礼の型が整ったと考えられる。

 

この祭りに奉仕する者は当家と言い、氏子の中より初老者が務める。

初老者の補佐として若役一人、年寄役一人となる。

毎年十二月一日午前零時、当家は村の中央を流れる川の清流で禊をして

身を清め神前に供えるもち米をかす、つづいて若役がこれを代行する。

 

かした餅米は神社境内の参籠舎で、年寄役が伊賀地方に伝わる祝い歌を

唄う中当家・若役は餅をつく、そのあと神社総代がこれを検証し、

神前に供えられる。

昭和三十九年の宗旨祭より以前の当家制を廃止し、村中の十八各組が

輪番で務める各組当番制となった。

 

当日午後二時、本殿において宗旨祭典が、 丸柱区長・宗旨当番組長

・神社総代等が参列して執り行われる。

神前には神饌物の海魚・野菜・果物のほか宗旨祭礼のお供えとして

洗米・清酒鏡餅・小餅・スルメなどが供えられる。

 

祭典に引き続、隣接する参籠舎において宗旨祭礼が氏子の全戸主・

長男等が、アツケ(御膳料)を持参して参加、執り行われる。

全員が着座し、太鼓を合図に当番組長の挨拶があり、撤下の

神酒・洗米を第一献・第二献・第三献と続いて拝戴する。

 

座前の膳には、昆布茶・焼魚・豆・蒲鉾・昆布巻などが準備される。

参加者には撤下品として小餅・スルメなど配られる。

次に当家渡しが行われ、最後に次年度の当番組長が受けて、挨拶をして

宗旨祭礼が終了する。

https://jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63453

 

拝殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

 

 

伊賀国では初めて出会う力石。奉納年月や由緒は不明です。

 

 

境内社は津島神社でした。三河に近いからなのでしょうね。

 

 

津島神社の前にはアリ地獄がたくさんありました。

 

 

 

 

一番小さいもので、直径2cmくらいです。

 

 

津島神社に向かって左後方に、稲荷神社が鎮座されます。

 

 

 

お地蔵さんも祀られています。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。