伊賀市法花 應感 ( おうかん ) 神社
旧上野市 ( 現伊賀市 ) のマンホールには、旧上野市の花ハギ、
市の鳥シラサギ、市内を流れる木津川のアマゴが描かれています。
應感 ( おうかん ) 神社は、岡八幡神社から北へ1.5㎞、山腹に鎮座されます。
鎮座地 三重県伊賀市法花 2350
岡八幡神社の前のい道路を、そのまま北上すると、四つ角に一の鳥居が
あります。
四つ角の道にあるのではなく、四つ角の、角の外側、道ではないところに
建立されています。
鳥居が建立されている場所が、かつて道だったという雰囲気はありません。
建設記念碑には 「 大鳥居の歴史 」 が書かれています。
安政四年 ( 1857 ) 建立
大正二年 ( 1913 ) 再建
昭和十五年 ( 1980 ) 再建
令和二年 ( 2020 ) 再建
鳥居をくぐると、向かって右に石灯籠、向かって左に手水鉢と台座があります。
台座には無数の盃状穴が開けられています。
石造か石灯籠の土台だと思うのですが、何かはわかりません。
近くのゲートボール場のベンチに座って休憩されていた法花マダム
( 20歳で奈良から嫁入りされたという90歳 ) にお尋ねしたところ、
「 石の土台があることは知っているけど、穴があることは知らなかった。」
ということでした。
応感神社が鎮座される山。
平成四年二月に奉納された狛犬。昭和の面影があります。
本日は、氏子の方々が掃除をされていました。
石段の右に御神池。
拝殿に向かって右前に手水舎。
本殿は春日造。
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神社名/通称 應感神社
鎮座地 三重県伊賀市法花 2350
主祭神
《主》 応感之神, 宇迦能御魂神, 建御名方之神, 大山祇之神,
《配》 建速須佐之男命, 五男三女神, 誉田別之命, 速玉男之神
由緒
当社の創祀については詳らかにし難い。
『 三代実録 』 によれば、貞観五年 ( 863 ) 応感之神に従五位下の
神階が授けられたとある。又同一五年には従五位上に叙せられている
国史見在社である。
近世の地誌である 『 伊水温故 』 によれば、諏訪大明神の社と称され
祭神は建御名方神で神像 ( 本地に十一面観音像 ) を安置しており、
鎮座地は法華村と伝えている。
江戸時代を通じ、近郷の人々の産土神として多くの崇敬者を集めていた。
社伝によれば現在地に鎮座されたのは天正伊賀の乱以降とされている。
明治四〇年 ( 1907 ) 同境内社八幡社・津島神社 大字法華鎮座
無格社山神社を合祀した。
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63728
「 応感之神 」 は、御祭神の総称 ( 尊号 ) です。
六国史 (日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、
日本三代実録 ) に記載されているお社を 「 国史見在社 」 といい、
その多くは式内社ですが、応感神社は式外社です。
本殿の左後方に、裏山 ( 竜王山 ) に鎮座される奥宮の参道があります。
掃除をされていた氏子の方々によれば、裏山は数多くの磐座があることで
有名で、多くの登山者があるそうです。
参道を少し登ったところに奥宮の遥拝所があり、そこまで行きました。
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竜山講由来記
古人の伝承に曰く
この竜王山 ( 標高361.7m ) 一帯は今を去る1230余年の昔 ( 八世紀 )
即ち天平13年聖武の帝、伊賀の地に国分寺及び尼寺建立の砌、大和朝の
宮人達木津川を遡り、伊賀越の節、この霊山を道標と仰ぎ天平人の間にも
特に信仰篤き御山と云う。
当時すでに近在近郷の庶民はこの御山を竜神の鎮まり給う聖地と仰ぎ、
或る時は雨乞いの祈願を掛け、或る時は風雨の静まらん鎮魂のお祭をした
素朴な信仰の対象であった。
今往時を偲べば彷彿として敬愛な古人の姿思い浮かぶこの自然の姿こそ、
心と心で結ばれた竜山講の源流であり、永遠に心の糧となり、知方となるもの
なり。
昭和四十七年六月八日 応感神社奉仕宮司 稲住佳生
竜山講再興発起人 藤森熊吉
右竜山講 講本 様元充
( 境内説明文 )
「 わらじ 」 や 「 わっぱ 」 が納められています。
本殿に向かって右前に靖国神社が鎮座されます。
法花、七本地区の散華された英霊二十九柱が祀られています。
掃除をされておる方々に、一の鳥居あった盃状穴についてお尋ねしましたが、
やはり穴の存在自体を知る人がおりませんでした。
拝殿からの眺め。
以上。