観阿弥ふるさと公園は、近鉄大阪線:桔梗ヶ丘駅から北東へ3㎞、
国道165号線 ( 初瀬街道 ) と県道692号線 ( こちらも初瀬街道 )の
交差点付近にあります。
住所:三重県名張市上小波田
このあたりは古代から開けていたようで、古墳がたくさんあります。
公園の入口というよりも、神社の参道という感じです。
登ってみたら、まるで神社でした。
向こう側には神楽殿があります。平成六年に建立。
中央に福田神社跡という石碑が建てられています。
福田神社は、合祀令によって明治四十三年に美波多神社に合祀されて
おり、跡が 「 観阿弥ふるさと公園 」 になっています。
名張市HPの記事を転載します。
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奈良県との境、三重県名張市上小波田地区。国道165号線にそって
小波田の里があります。
里をとりまくゆるやかな山、近くを流れる一筋の小川をはさんで、
田や畑が広がっており、緑の繁った鎮守の森があります。
きれいな木立ちに囲まれた坂道を登ると、そこが観阿弥ふるさと公園
です。
この公園は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるため整備されたもの
で、毎年、11月の第1日曜日には「観阿弥まつり」が行われ、
能楽愛好家による仕舞や地元の子ども達による狂言などが演じられて
います。
ヒノキ造りの能舞台や東屋などがあり、まわりの木々の緑に映えて、
大きな碑が見えます。
田楽・猿楽
日本の古典演劇の代表的存在である「能」は、江戸時代までは
「 猿楽の能 」 とか、単に 「 猿楽 」 とか呼ばれていました。
猿楽は唐時代以後に中国で盛んだった散楽の名に由来し、中国伝来の
芸能と日本古来の芸能とがとけ合って発達した雑芸・遊芸のことで、
その芸に従事する役者や座(同業組合のような組織)をも意味して
いました。
「 散 」 の字がサルに近い音で伝えられたと見えて、散楽は仮名
では 「 さるがく 」 または訛った形の 「 さるがう 」 と書かれ、
漢字でも 「 猿楽 」 と書く例が増加します。
平安時代中期の 「 枕草子 」 や 「 源氏物語 」 などに用例が
見られる 「 さるがうごと 」 「 さるがうがまし 」 が、
「 滑稽な言葉・冗談 」 や 「 道化じみている 」 などの
意味であるのも、猿楽が滑稽な所作やセリフを主としていたことの
反映でしょう。
物まね・曲芸・歌・踊り・手品など雑多な芸が入っていましたが、
その中から歌と舞の部分が、とくに猿楽 ( または猿楽能 ) として
発達をみたのです。
田楽は、もとは農民たちが、田植えの時に笛や太鼓でにぎやかに歌い、
踊った舞いのことで、豊作を祈る農村の民俗から発展した芸能です。
田楽も猿楽も、神社の祭礼や寺の法会にはなくてはならぬ行事で、
大きい神社や寺は専属の田楽座や猿楽座をかかえていたのです。
田楽でも猿楽でも、それを演じるのは田楽師・猿楽師とよばれる
専門の芸人で、彼らは仲間を集めて座という同業組合を作っていました。
こんにちの楽団とか劇団とかいうものに当たります。
人々は祭りやお寺の会式に、田楽や猿楽が来ると聞けば、我さきに
おし寄せ、時の経つのも忘れて喝采を送りました。
なお、「 座を建てる 」 ということばを用いていますが、それは猿楽を
演じる建物を造ることではなく、猿楽の一座を組織することなのです。
https://www.city.nabari.lg.jp/s061/060/050/020/201502051936.html
足利義満公は、大名たちのトップであった武将でありながら、
左大臣へ昇進し、金閣寺を建立して北山文化を開花させた貴族、
文化人でもありました。
平安期の古典にも明るい義満公を楽しませなければならない観阿弥・
世阿弥は、古典を研究しつくして作能し、義満公を楽しませ続けます。
武将・貴族のトップであった義満公が能にのめりこんでいるのですから、
その下に付いている武将・貴族がのめりこまないわけがない。
観阿弥は能が発展・隆盛していく過程で、51歳で静岡で亡くなって
います。
静岡市に鎮座される静岡浅間神社の境内に、観阿弥の記念碑が
建立されています。
義満公が薨去された後、第四代将軍となった義教公に、世阿弥は
冷遇されます。おそらく、武家や公家にも冷たくされたに違いない。
何があったのかわかりませんが、72歳になってとうとう佐渡島に
流されています。
能がこんなになってしまうなんて、観阿弥は思いもよらなかった
でしょうね。
義教公が将軍職を退いた後、世阿弥は京に戻ることができましたが、
すぐに亡くなります。
福田神社跡地に向かって右に祠が祀られています。御社名不明。
福田神社跡地からの眺め。
以上。