名張市のマンホールには、中央に市のマスコット:ナッキー、その周りに

市の花キキョウ、市の木モミジが描かれています。

名張市の 「 ナ 」、桔梗の 「 キ 」 で、「 ナッキー 」。

 

 

宇流冨志祢 ( うるふしね ) 神社は、近鉄大阪線::名張駅から南へ300m、

住宅街の外れに鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:三重県名張市平尾3319番地

 

 

参道の右にお地蔵さんの祠。

 

 

周辺から集められたと思われる仏像群。

 

 

写真を撮っていたら、日傘をさしてジャズを流しながら名張マダムが歩いて

いかれました。手提げバックの中に、たぶんラジカセがあります。

ジャズを流しながら歩くマダムに出会ったのは、そこそこ長い人生の中で

初めてです。

 

 

参道の左に、平成七年と平成二十七年の造営記念碑。

今回参拝した、名張市に鎮座されるお社には、造営記念碑が標準的に

建立されていました。修理や増設の内容が書かれています。

 

 

 

参道の右に忠魂碑が建立されています。

 

 

 

 

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市指定文化財 ( 工芸 ) 石造鳥居

 

この鳥居の高さは笠石の中央部で約4.8m、笠石の両端部では約5.28m

となっている。笠石は長さ約6.6mで反増 ( 反り ) がある。

柱石は長さ約4.4m、周り1.53mで、左右とも二本継ぎである。

貫石は現在は左右とも袖を欠いている。

 

柱石は下部に亀腹 ( 台石 ) がなく、直ちに地中に埋められており、

向かって左の柱に 「 奉寄進天和三癸亥年十一月二十五日 」( 1683 )

の銘が刻まれている。

 

                         ( 境内説明文 )

 

鳥居に向かって左に手水舎。

 

 

 

 

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市指定文化財 ( 工芸 )  石造手水鉢

 

上部は外側縦71㎝ 横1.06mの長方形で、深さ26㎝ 厚さ8㎝の水鉢で

下部は縦58㎝ 横1.01mで高さは46㎝である。

この鉢は横12㎝ 高さ30㎝ 長さ56㎝の石の角棒二本の台上に置かれて

いる。

正面に 「 天和二壬戌年 」( 1682 ) の刻銘があり、在銘の手水鉢

としては市内で最も古いものである。

                        ( 境内説明文 )

 

かなり個性的なデザインの龍です。

 

 

 

手水舎の奥に境内社が鎮座されます。

 

 

左から、御社名不明の石祠、鳥居があるのは大神神社、

右の石塔は神武天皇遥拝所。

 

 

左から、白玉明神、愛宕神社、稲荷神社、護国神社、八坂神社、

市杵嶋姫神社。

 

 

護国神社の前には鉄カブトと砲弾が置かれています。

 

 

多賀大社遥拝所、珍しいですね。

 

 

左は八幡神社、左は古札納所。

 

 

八幡神社と古札納所の間に山王権現が鎮座されます。

 

 

手水舎の対面に鹿の像があります。

 

 

 

一対目の狛犬。奉納時期は不明。

 

    

 

 

二対目の狛犬、明治三十七年の奉納。

 

    

 

 

式内社 宇流富志弥神社 伊賀国 名張郡鎮座

旧社格 県社

 

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宇流富志弥神社

 

当社は延喜式内国史現在社にて主祭神宇奈禰命は神武建国の始め

一国の瑞穂と氏族の安泰を祈願するために祭祀される。

天正伊賀の乱にて沿革誌等兵火に遭い焼失するも古文書によれば

貞観十五年 ( 873 ) 宇奈禰神従五位とあり、後神位階昇進し永徳元年

従一位に昇進神園大麿に見ゆ。

天武天皇三年圭田42束4カ所を以て祭祀するとあり。

文徳天皇仁寿元年官幣を受け国司より幣帛を賜るとある。

 

鎌倉幕府開府により廃止となるまで歴代崇敬篤く、その後松倉豊後守

勝重公及び藤堂高吉公伊賀国に移封領主とし、尊敬篤く神威昂揚

社勢整い、明治十四年県社の社格を受け、明治四十年附近村落の

14社を合祀し郷土の鎮守神として親しまれ信仰されて現在に至る。

 

例祭  春祭 4月18日

    秋祭 10月28日

境内社として興玉松尾神社、稲荷神社、愛宕神社、八坂神社、

三輪神社、八幡宮、市杵島姫神社、山ノ神、白玉明神、護国神社 を

併祀する。

 

                        ( 境内説明文 )

公式HPの記事を転載します。

 

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宇流冨志祢神社

 

由緒として、当社は天正伊賀の乱( 1580年 )で、社殿はもちろんの事、

宝物や古文書など、すべて焼き討ちにあい消失された。

したがって、記録的なものは残されていないが、本殿の境内地に元久二年

丑( 1205年 )の銘が入っている石燈篭があり、元和二年12月20日の

棟札があり、この年に再建されたものと思われる。

 

崇神天皇の時、「 倭姫世紀・神宮後鎮座記 」 に伊賀陰志守宮二年奉斎

とあり、これによって当社にも倭姫の巡行があったことが記されている。

 

また、「 三代実録 」によれば、清和天皇 貞観十五年( 873年 ) 九月

二十七日に宇奈根神、従五位上とあり、その後徐々に位を上げ、

円融天皇、永徳元年辛酉2月24日(1387年)従一位を授かる。

 

天武天皇のとき、圭田42束、四箇所の神田をもって祭祀し放正会を

行われ、官幣の奉幣を受けること11回に及ぶ。

また後に、伊賀の領主である筒井定次の重臣の松倉豊後守勝重が名張に

着任し、新領を寄進され、また寛永十三年に藤堂宮内少輔高吉により

更に神領を寄進された。

 

その後、祭祀には乗馬が出され、累代尊崇の社のして以来、名張の

氏神として崇拝され現在に至っている。

当神社は延喜式内で、伊賀二十五社の内の一社であり、明治十四年

十一月に県社に認定される。

http://urufushine.jp/history.html

 

鳥居の近くに鹿の像があったので、春日神社が祀られているのかと

思いましたが、鎮座されていません。

 

奉納された日本酒。

 

 

 

 

本殿に向かって左に松尾神社が鎮座されます。

名張は酒蔵は多いです。

 

 

拝殿の前の参道は石畳で、明治三十六年に敷かれています。

 

 

石畳は60枚ほど敷かれており、その内、拝殿の直前にある一枚だけ、

盃状穴と思われる穴があります。深さは1㎝くらいです。

 

 

宮司に穴のいわれをお尋ねしたところ、穴があることに本日初めて

気が付いた、ということでした。

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。