サンショウウオの生息地として有名な赤目四十八滝から流れ出ている

滝川。

 

 

蛍や手すき和紙の産地としても有名なのだそうです。

道端に掲げられていた説明文を掲載します。

 

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手すき和紙

 

手すき和紙の製造には、きれいな水を必要とするため川に沿った

集落を中心に江戸時代から作られていましたが、明治から昭和初期に

かけて神の需要が著しく増え、赤目町一帯は一大生産地となって

いました。

 

特に、赤目瀧から流れてくる青龍に恵まれていた赤目町柏原は、

一集落としての従業戸数、生産高友最も多く、中心的位置をしめて

いました。 そして長坂、丈六、相楽方面、さらには綿生方面へと

拡がっていきました。

 

出来上がった和紙は、上野地方の特産である和傘の製造に大量に

使用されました。

名張市郷土資料室には、「 紙すき用具一式 」 が三重建の有形民俗

文化財に指定され保存されています。

 

赤目まちづくり委員会

                         ( 説明文 )

 

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ホタルの生息地域

 

ホタルは、万葉の昔より初夏の風物詩の代表とされ、得ぢ時代の

慶安元年 ( 1648 ) 名張のホタル数千匹を江戸表の藤堂高通五才に

献上したり、承応二年 ( 1653 ) には、江戸藩邸に献上しています。

 

さらには、昭和三十年頃 ( 1955 ) 赤目納涼大会宣伝のため大坂

道頓堀戎橋上で赤目の子供達が取り集めた一万匹あまりのホタルを

運び放飛したことなどの記録が残されています。

 

赤目四十八滝を源流とする滝川一帯には、昔からホタルが多く

生息していおり、特に、ゲンジボタルを丈六ボタルと呼び、固有地名

がつけられるほど親しまれてきました。

 

一時期絶滅に近い時がありましたが、地元の皆さんの環境保護活動

により現在の復活に至り、将来への希望を灯しています。

 

現在では、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルなど多様な種の

ホタルを観察することができますが、なかでもヒメボタルは水域では

なく山林内で生息している種で、三重県内でも御在所岳など数ヶ所

でしか見られない貴重な種と言われています。 ( 平成二十七年現在 )

 

赤目まちづくり委員会

                          ( 説明文 )

 

勝手 ( かって ) 神社は、近鉄大阪線:赤目口駅から南東へ900m、

田圃の中に鎮座されます。

ここから南東へ3㎞をほのところに、赤目四十八滝があります。

 

 

 

鎮座地:三重県名張市赤目町柏原 464

 

 

 

鳥居に向かって右に山神が祀られています。

 

 

鳥居をくぐった右に手水舎。

 

 

 

 

    

 

山陰地方ではよく見かける、お尻を高く上げた狛犬。

平成二十一年三月の奉納です。

 

    

 

 

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勝手神社

 

柏原地区の氏神として古くから鎮座している。

元来の勝手神社は、天忍穂耳命を祀り、永禄五年 ( 1562 ) 柏原城の

城主瀧野十郎吉政が勧請したものとされる。

 

天正九年 ( 1581 ) 天正伊賀の乱において織田信長に攻められ落城

したが、その後、村民これを氏神として崇敬し、文禄二年 ( 1593 ) 

新たに神殿を再建した。

 

明治四年 ( 1871 ) には、村社に指定され、明治四十年 ( 1907 ) 

地区内に有った無格社を合祀している。

 

赤目まちづくり委員会

                       ( 境内説明文 )

 

三重県神社庁HPの記事を転載します。

 

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主祭神          

《主》 天忍穂耳命,

《配》 天照皇大神, 建速須佐之男命,  大日孁貴命, 宇迦能魂神, 

    菅原道真,  木花佐久夜比売命, 奥津比古命, 天児屋根命, 

    天布刀玉命, 大山祇神,         火産霊神, 

        底筒男命,      中筒男命,            上筒男命,

 

由緒          

当社 「 祭神記 」 に、永禄五年 ( 1562) 当地の士官滝野十郎吉政の

創建という。

以降、鎮守として尊崇され、後世に至り別当を置き、勝手神社と称した。

天正九年 ( 1587) 織田信長の伊賀攻めに遇うが文禄二年 ( 1593 )

社殿を再興した。

明治四一年赤目町星川の八幡神社を当社に合祀。

但しこの神社は昭和二二年旧地に復した。

https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63842

 

次男の織田信雄公が独断で8,000の兵を指揮をされた一次伊賀攻め

 ( 天正七年、1579 ) では、伊賀側にこてんぱんにやられて撤退。

そうそうたる織田軍の武将が参加し、5万の兵で攻めた二次 ( 天正九年

、1581 ) では、織田側が圧勝しています。

柏原城は伊賀国のほぼ最南端にある城で、柏原城の落城で伊賀攻めが

完了しています。

 

御神域の隅っこには、天正伊賀攻めの記念碑が建立されています。

「 天正伊賀乱四百年記念 決戦之地 柏原城 」

と彫られています。

 

 

刀剣ワールド HP の 「 天正伊賀の乱 」 には、天正伊賀攻めの内容が

わかりやすく説明されています。

また、伊賀国の代表的な城の地図が掲載されています。 

https://www.touken-world.jp/tips/52412/

 

本殿は春日造。きれいですね。

 

 

 

本殿に向かって左に、慰霊碑が建立されています。

 

 

式年御造営の碑。

名張に鎮座されるお社には、同様の碑が建立されていました。

社殿等の修理や神具の調達などの内容が書かれています。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。