狭山市のマンホールには、市のキャラクター:おりぴいが

描かれています。

 

 

狭山市のHPによれば、入間川七夕祭は関東三大七夕祭りの一つに

数えられ、おりぴいは七夕祭を盛り上げ、狭山市を元気にするために

織姫様から遣わされた妖精だそうです。

 

茶畑が広がっています。 狭山は日本有数の茶どころです。

 

 

首都圏へ野菜を供給する産地でもあるので、大事な畑は警備員が

守っています。

 

 

警備員は、芸人で天才画家でもあるくっきーさんでした。

 

 

堀兼神社は、西武新宿線:入曽駅から東へ2.5㎞のところに鎮座

されます。

 

 

 

鎮座地:埼玉県狭山市堀兼2221

 

 

 

 

左に手水舎。

 

 

 

手水舎に向かって左の奥に、堀兼の井があります。

 

 

堀兼の井は、深く井戸を堀り、下にある井筒まで階段で降りる、

 埼玉県狭山市入曽  常泉寺   「 七曲の井 」

 東京都羽村市    五ノ神社  「 まいまいず井戸 」

 東京都武蔵五日市市 阿伎留神社 「 まいまいず井戸 」

と同様のものです。

 

狭山市入曽に鎮座される野々宮神社の境内説明文によれば、

 

日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰途、当地に立ち寄り、

水を得るため堀難 (  ほりかね )  の井を掘らせた。

 

とあります。

また、日本武尊薨去後、倭姫命の後裔が狭山に来て開拓し、

社殿を建立して日本武尊・倭姫命を祀ったのが野々宮神社と

伝えられています。

 

しかし、堀兼神社の境内に掲げられた説明文は、若干トーン・

ダウンしています。

 

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堀兼の井  鹸指定文化財 旧跡

 

武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり 

             ( 千戴集、藤原俊成 1114~1204 )

 

という歌にもあるように、堀兼の井は古くから書物に現われ非常に

有名なものです。

 

しかし、武蔵野には、数多くの 「 堀兼井 」 と称されるものがあった

と推定され、この堀兼神社境内にある 「 堀兼の井 」 が、古くから

言われている 「 堀兼の井 」 かどうかはわかりません。

 

しかし、江戸時代から史跡として知られた場所であったことは間違い

なく、宝永戊子年 ( 1708 ) の 「 堀兼井碑 」 や、天保十三年

( 1842 ) の碑も現存しています。

 

この井の形態や使用法は入曽の七曲井と同様と考えられ、昔は

重要な役割を持っていたと思われます。

藤原俊成の歌のほかに次のような歌もみられます。

 

あさからす 思へはこそ ほのめかせ 堀金の井の つつましき身を

                俊頼集 源俊頼 ( 1055~1129 )

 

くみてしる 人もありなん 自づから 堀兼の井の そこのこころを

               山家集 西行法師 ( 1118~1190 )

 

いまやわれ 浅き心を わすれみす いつ堀兼の 井筒なるらん

                 拾玉集 慈円 ( 1155~1225 )

 

平成二年三月  埼玉県教育委員会

        狭山市教育委員会

                         ( 境内説明文 )

 

堀兼の井の右に境内社が鎮座されます。

江戸時代中期に、こちらに祀られたそうです。

左から、「 天満宮・金毘羅大権現 」 、天満宮。

 

 

隋神門。

 

 

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隋進門および二神像  市指定文化財 建造物

           指定年月日 昭和六十一年十一月一日

 

この随神門は子内唯一のもので、創建は不詳ですが、万延元年 

( 1860 ) に神像を塗り替えたとする記録があるので、江戸時代後期

には既に存在していたと考えられます。

 

 

建物は桁行6.85m、梁行4.12mで、単層入母屋造りの八脚門です。

屋根は当初草葺でしたが、大正十四年に銅板葺に改造されました。

その際に斗組 ( ますぐみ ) と屋根化粧材は新材に変えましたが、

柱、地覆 ( じふく )、腰貫 ( こしぬき )、頭貫 ( かしらぬき )、

台輪、丸桁 ( まるげた ) は当初材を伝えています。

 

 

隋身とは、平安時代以降に上皇や貴族が外出するときに武装して

警護にあたった人のことです。

日本の神道においては、神を守る者として安置されており、隋神とも

書かれます。

 

この二神像は、向かって左側が豊磐間戸命・右側が

奇 ( 櫛 ) 磐間戸命で、俗に矢大臣、左大臣と呼ばれています。

 

平成二十七年二月  狭山市l教育委員会

          狭山市文化財保護審議会

                         ( 境内説明文 )

 

二神像が置かれておりませんでした。

 

随神門に向かって右に手水舎。

 

 

明治三年九月九日の銘がある手水鉢には、盃状穴が掘られています。

 

 

 

時計回りに見ます。

 

写真を撮っていると、80歳くらいの地元の方がやって来られましたので、

「 この穴、何のために掘っているのか、聞いたことはありますか?」

と尋ねたところ、

「 穴があったのか!子供の頃から使っているが、知らなかった。」

と驚かれました。

明治三年に奉納された後、昭和30年代くらいまでの間に掘られたもの

と思われますから、この方が成人になられるまでには掘られていたはず

です。

 

「 これ、何?」

「 女性の性器をかたどったもので、子授かりや安産を願ったものと

  言われています。」

と答えると、なるほど、といった顔をされました。

女性器に関わる祭りごとか何かがあるのかな、と思ったのですが、

尋ねれば良かった。

 

続く。