川越市のマンホールには、「 時の鐘 」 を頭に載せた 「 さつまいも 」

の マスコット 「 ときも 」 と 「 時の鐘 」 が描かれています。

 

 

仙波愛宕神社は、JR川越駅から東へ700m、富士見町交差点で国道

16号線を渡ったところに鎮座されます。

 

 

鎮座地:川越市富士見町33-1

 

 

 

 

鳥居の右に手水鉢。手水舎の柱の基礎は残っています。

 

 

鳥居の両側には、ユニークなデザインの狛犬。

 

    

 

鳥居の左には、松尾芭蕉の句碑があります。

 

 

 蓬莱に 聞かばや 伊勢の初便り

 

元禄七年 ( 1694 ) の元旦に、江戸で詠んだ句だそうです。

なぜ川越の愛宕神社に句碑があるのか、説明文には書かれて

おりませんでした。この年の十月十二日に亡くなられています。

 

鳥居をくぐると、急峻な石段があります。

仙波愛宕神社は、円墳の上に造営されています。

 

 

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愛宕神社古墳  市指定・史跡

 

仙波大地の東南端上に築かれたもので、かつてこの付近一帯には

六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことが

窺える。

 

高さ6m、東西30m、南北53mを有し、基壇のある二段築成の円墳で、

幅約6mの周溝が東南の斜面を除いて巡っている。

六世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている。

 

昭和六十三年三月 川越市教育委員会

                        ( 境内説明文 )

 

 

 

本殿の土台に、文字が刻まれています。

 

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大正十二年九月一日、大地震就本殿倒壊。

同年十月再建起工。 同十三年七月落成。

大仙波崇敬者一同

                        ( 碑文 )

 

内閣府の 「 関東大震災100年 」特設ページで、被害状況を

地域別でおおまかに知る事ができます。

 

埼玉県は東部に被害が集中していますが、その集中被害地域から

少し離れて、東京の赤羽あたりから川越方面に向かって、被害地域が

伸びています。荒川に沿って伸びているようですね。

 

 

愛宕神社の東150m程を流れているのは、荒川の支流:新河岸川です。

仙波町は現在の川越市の中心地ですが、新河岸川の川舟運の最上流の

河岸が仙波河岸でした。 ( 新河岸川の最上流の港に栄えた港町。 )

関東の需要な地域であり、川越城も築かれています。

 

荒川は秩父の荒川村の山々を源にして流れていますが、大震災の被害は、

さすがに秩父までは到達していないようです。

 

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歴史

 

当社は仙波河岸にある。

仙波河岸は新河岸川舟運の最上流の河岸であり、古くから東照宮・

三芳野神社の資材運搬時に利用されているが、正式な河岸開設は

明治初年である。

 

河岸としては新しいが当地の歴史は古く、『 風土記稿 』 に 

 

「 塚三、六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり 」

 

とあり、当社について

 

「 愛宕社 円径五十間、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望

東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を

隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、

当所を父塚とわかちいへり 」

 

と載せている。 また 『 武蔵名所図会 』 には

 

「 祭神彦火々出見尊、別当万仁坊当山派修験、往古此所迄武蔵野

 なりし頃、此辺の野中に百塚あり、就中富士浅間之山と

 此愛宕尤大也、依而父塚母塚と云ひしか何の頃にや浅間と愛宕の

 両社勧請せり。

 瀑布麓に有清潔之冷泉にて参詣之人かならす此飛泉に垢離す、

 毎年六月廿四日を以て祭祀あり、此日柴焼護摩修行ある。

 摂社婆伽羅龍王 」

 

とある。 社記は

 

「 祭神火産霊命、平安の頃山城国愛宕山より分霊を奉斎、天文九年

  川越城大道寺駿河守の許状、文禄二年山城国愛宕山長床坊内

  東光坊の末寺とする書状があり。

  慶長一九年川越城主より中田一反中畠一反の寄進がある 」

 

と記す。

社殿造営は、文化七庚午歳六月十五日別当方仁坊銘の本殿棟札がある。

現在の本殿は関東大震災後の再営である。

 

信仰

 

当社には地蔵菩薩が安置されている。

これは火除けの新興から城の鎮めとして祀られ、城主から田畑を寄進

されるなど、白の鎮護としての崇敬を受けた。

 

また、新河岸川の上流、俗に 「 仙波の滝 」 の上に当社のはあり、

名勝図会にいう摂社娑伽羅龍王は、水運関係者に進攻され、倶利伽羅

不動像が祀られている。

 

更に口碑では、当社は麻疹 ( はしか ) に効く神様といあれて、麻疹が

流行した時、母親が子供を抱いて本殿の下を潜り抜けると軽く済むと

いわれる。

 

また、浅間神社のある塚を母塚、愛宕神社のある塚を父塚と呼び、

当年児は七月十三日の初山には母塚に、同二十四日には麻疹が

軽いようにと父塚に詣でる、という。

 

当社の祭礼は、七月二十三、二十四日の愛宕様の祭りであり、

昭和の初期までは愛宕祭の万灯が飾られた。

二十三日の朝、若衆が幟旗を立て、石段下の広場に櫓を組み、

夕刻から神楽囃子を行った。

 

また、石段下にマタギ ( 跨ぎ灯籠 ) を立て、道筋には万灯を

飾った。

この日は酒番が一晩中拝殿に詰めて参詣者に御神酒の接待をし、

露店が200軒ほど出たという。

 

祭典は翌朝九時から行い、神賑わいに神楽囃子が奏され、

若い衆は境内で力石を持ち上げて興じた。

これも戦争が激しくなり、昭和十三年を最後に消えてしまった。

現在の祭りは、祭典後、林保存会により、囃子の奉納がある。

 

                      ( 境内説明文 )

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。