本堂に向かって右に多宝塔。

 

 

 

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県指定・建造物 多宝塔

 

『 星野山御建立記 』 によると、寛永十五年九月に着手して翌十六年

( 1639 ) に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門

だったことがわかる。

 

この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。

明治四十五年道路親切のため移築 ( 慈恵堂脇 ) されたが、昭和

四十七年より復元のため解体が行われて昭和五十年現在地に

完成した。

 

多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形で、その上に

宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪を載せている。

下層は廻縁 ( まわりえん ) を回 ( めぐ ) らし、軒組物は出組を用いて

四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹 ( かめばら ) がある。

 

この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。

円形の上層に宝形の屋根をのせているので、組物は四手先を用いた

複雑な架構となっているが、これも美事に調和している。

 

相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付き

宝珠がのっている。

この多宝塔は慶長年間の木割本 『 匠明 ( しょうめい ) 』 の著者が

建てた貴重なる遺構で名塔に属している。

 

昭和五十四年三月 埼玉県教育委員会

         川越市教育委員会

                       ( 境内説明文 )

 

本堂に向かって右に大黒天が鎮座されます。

 

 

 

本堂に向かって左に、松平大和守家廟所があります。

 

 

 

 

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松平大和守家について

 

江戸時代後期に川越城主であった松平大和守家歴代当主の墓所で

ある。 

松平大和守は、結城秀康 ( 徳川家康の次男 ) の五男・直基

( なおもと ) を初代とする御家門 ( ごかもん、徳川家の一族 ) の

家柄で、代々大和守を名乗った。

武家の名門・結城家を相続したことから、結城松平家とも呼ばれ、

越前松平家の一門である。

 

                                                 ( 境内説明文 )

 

廟所の前には、物を背負っていない贔屓 ( ひき )。 珍しい。

 

 

亀と間違われますが、贔屓は龍生九子 ( 龍が生んだ神獣 ) の一つ

ですので、龍です。 

贔屓は重いものを背負うのがすきなので、普通は石碑や石塔を背中に

載せています。

この状態は贔屓にとってはハラスメントですので、物を載せてあげないと

問題になります。

 

本堂に向かって左の、丘の上に歴代住職のお墓があります。

 

 

    

 

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県指定・史跡 暦応の古碑

 

暦応の古碑として指定されているが、その実は 

「 暦応□□□□□月十五日 」

の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に

52名にのぼる喜多院 ( 無量寿寺 ) の歴代の住職の名と見られる

者を刻している。

 

喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が

重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったもので

ある。

梵字の真下中央に 「 僧都長海現在 」 とあるので、

暦応 ( 南北朝時代初期 ) の頃の住職であったことがわかる。

 

昭和五十四年三月 埼玉県教育委員会

         川越市教育委員会

                       ( 境内説明文 )

 

延文の板碑

 

暦応の板碑とならんで立っている延文三年のこの板碑は、高さ276cm、

最大幅69.4cm、暑さ9cmで川越市最大の板碑である。

 

暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに、

僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4、の合計60名が刻まれており

「 一結諸衆/敬白 」 とあり、文字通り結衆板碑である。

 

聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに少なからず歳月を

費やしたことが考えられる。

暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑は、

その殆んどが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師と

なって、在俗の人々が結衆したことがわかる板碑である。

 

昭和五十四年三月 埼玉県教育委員会

         川越市教育委員会

                         ( 境内説明文 )

 

本堂に向かって左前に鐘楼があります。

 

 

    

 

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鐘楼門附銅鐘 ( 国指定重要文化財・建築物 ) 

 

江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当寺鐘楼門は、喜多院

境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。

また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと

考えられます。

 

鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。

下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打

です。

 

 

上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫 ( 木鼻付 )、

台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。

 

 

正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、

背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾り

ます。

上層には、元禄15年 ( 1702 ) の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の

銅鐘を吊っています。

 

寛永15年 ( 1638 ) の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠

などから判断して銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当だ

と考えられます。

 

昭和五十四年三月 埼玉県教育委員会

         川越市教育委員会

                         ( 境内説明文 )

 

本堂に向かって左奥に弁材天が鎮座されます。

 

 

本堂に向かって右前五百羅漢像。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

以上。