右に手水舎。

 

 

 

 

左:大黒社、右:蛭子社。

 

    

 

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三芳野神社末社 大黒社 ( 一間社流造・見世棚造 )

        埼玉県指定文化財 平成四年三月一日指定

 

寛永二年 ( 1625 ) 徳川家光命により、川越城主・酒井忠勝建立。

天保十三年 ( 1842 ) 再建。

玄・御神体の大黒天 ( 川越博物館保存 ) は、木造一木造りで、

木像・俵・台座が別れます。

 

台座裏に記された銘から、同年、仏師定慶により製作されたと

わかります。

 

三芳野神社末社 蛭子社 ( 一間社流造・見世棚造 )

        埼玉県指定文化財 平成四年三月一日指定

 

寛永二年 ( 1625 ) 徳川家光命により、川越城主・酒井忠勝建立。

神号 「 蛭子社 」( 川越博物館保存 ) 、裏面に 「 享保十九年 」

( 1734 ) の年紀が記され、この時、末社が修復され、額が新調された

と考えられます。

 

末社は同形・同寸法の為、大黒社とともに天保十三年 ( 1842 )

再建されたと考えられます。

 

                      ( 境内説明文 )

 

拝殿の柱の狛犬は、親しみのある表情です。

 

    

 

本殿。

 

 

三芳野神社

 

祭神           素戔鳴尊・奇稲田姫命

相殿           (配祀)菅原道真公、(合祀)誉田別命

住所           川越市郭町2-25-11

備考           旧県社

 

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三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社  付明暦二年の棟札

                      ( 県指定・建造物 )

 

平安時代のはじめ大同年間 ( 806~810 ) の創建と伝え、三芳野

十八郷の惣社として崇敬をあつめました。

太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は

徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 

寛永元年 ( 1624 ) 幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行と

なり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。

その後、明暦二年 ( 1656 ) 川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、

幕府棟梁木原義久が改修を加えました。

 

社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化四年 ( 1848 ) 幕府棟梁甲良

若狭により瓦葺に改められ、さらに大正十一年銅板葺に改められ

ました。

 

 

三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造で、屋根はこけら

葺形の銅板葺です。

外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗

とします。

 

本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、

正面に木階をもうけ、全面は幣殿に接続します。

身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、

外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。

組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。

中備は極彩色を施した蟇股です。

 

幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、全面は拝殿に

接続します。

組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。

内部は拭板敷に小組格天井です。

 

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。

三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の

向拝をもうけます。

組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。

 

内部は拭板敷に小組格天井です。

向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を

付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。

裏側には花木を篭彫した手挟を飾ります。

 

三芳野神社社伝の造営経過はいささか複雑です。

寛永元年 ( 1624 ) の造営は、慶安二年 ( 1649 ) 松平信綱が

奉納した 「 三芳野天神縁起絵巻 」 に詳細に記されていますが、

そこに描かれた社殿は、流造の本殿と入母屋造の拝殿のみで

幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

 

平成元年から平成四年にかけて実施された解体修理の報告書

『 三芳野神社社殿修理工事報告書 』 によれば、蟇股と各部

取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三個の蟇股は

すべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、

斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明

しました。

 

また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在して

いましたが ( ただし現在の蟇股とは異なる )、本殿は蟇股の無い

建築であったことも明らかになりました。

 

現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し

取り付けたものと考えられます。

また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合わせでおさまりが不自然な所も

数カ所指摘されています。

 

以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのもの

ではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、

寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 

明暦二年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と

拝殿が三芳野神社の外宮 ( 天神外宮 ) となり、明治五年に氷川神社

境内 ( 宮下町 ) に移され、八坂神社社殿として現存しています。

 

確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮

の本殿であり、明暦二年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿

と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 

蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に面し向かいあって

鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。

両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めて

います。

朱塗の一間社流造、見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅板葺きとします。

 

蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、

身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。

庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。

 

明暦二年 ( 1656 ) の 「 三芳野天神別当乗海覚書 」 に

「 末社両宇 」 とあるのが相当すると思われ、元禄十年 ( 1698 ) の

「 元禄十一年川越市街屋敷社寺記 」 に 「末社貮ヶ所共、表四尺四寸、

奥七尺九寸 」 とあって、規模が記されています。

 

 

しかし、現社殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分

であり、元禄の記録と一致しません。

蛭子社に掲げられた額の背面に享保十九年 ( 1734 ) の年紀が

あるので、その頃再建されたものと思われます。

 

昭和三十年十一月一日 ( 平成四年三月十一日追加 ) 指定

川越市教育委員会

                                                 ( 境内説明文 )

 

 

 

権現造。

 

 

蛭子社の後方には御神木の楠。

 

 

その後方には、稲荷神社が鎮座されます。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。