川越市のマンホール。

 

 

--------------------------

 

 川越市のシンボル 「 時の鐘 」 と 「 蔵造りの町並み 」 を

イメージして制作したマンホール蓋です。 

約400年前の創建当時から川越の町に時を告げている「 時の鐘 」

は、高さ約16メートルの木造三層の鐘つき堂です。 

平成28年度の耐震工事を経て、現在は明治27年の再建当時の姿が

復原されています。 

 

一方、江戸の町で流行した耐火性の高い町家である「 蔵造り 」は、

商業で江戸との結びつきが強かった川越の商家により採り入れられ

ました。 

現存する蔵造りの多くは明治の大火後に建築されたものですが、

今の東京では見られなくなった江戸の面影を湛え、「 小江戸川越 」

の情緒を感じさせてくれます。

    

                                      ( マンホールカードの説明文 )

 

川越の花はやまぶき。

 

 

武蔵石で山吹とくれば、太田道灌公と山吹の娘。

物語の舞台と主張する場所は、北の里の越生から南の大都会新宿まで

いっぱい有ります。所沢や川越もその一つです。

 

NPO法人 江戸城再建を目指す会 HPで、物語が紹介されております

ので転載します。

 

--------------------------

 

ある日、道灌が部下と狩りに出かけたところ、突然の雨に見舞われ

農家で蓑 ( みの ) の借用を申し出た。

応対に出た若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。

 

事情が分からない道灌は

「自分は山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」

と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。

 

しびれを切らした道灌はずぶ濡れになって城に帰り、古老にその話を

した。すると、古老は

「 それは平安時代の古歌に

  七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき

 という歌があり 『 蓑 』 と 『 実の 』 を懸けています。

 貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えたのです。

殿はそんなことも分からなかったのですか 」

と言われた。

 

道灌は自らの不明を恥じ、その後歌道に精進したという話である。

これは戦前の教科書に載っており、年配者には知られた話である。

 

実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた

「 常山紀談 」 に載っており、庶民は好んでこの話を講談や落語で

取り上げた。

 

現在、山吹の里を自称する町は関東に十数ヶ所あり、新宿区にも

「 山吹町 」 と言う地名がある。

因みに植物学的に言えば八重山吹は実をつけずに株分けでしか

増えないが、普通の山吹は実をつける。

https://www.doukan.jp/about/episode2

 

後拾遺和歌集 兼明親王 ( かねあきら しんのう ) の歌です。

 

川越城本丸御殿は、西武新宿線:本川越駅から北へ1.5㎞のところに

在ります。

 

 

住所:埼玉県川越市郭町2丁目13-1 川越城本丸御殿

 

 

両側に土塁の跡があります。

 

 

本丸御殿。

 

 

 

江戸図屏風に描かれた川越城をみてみると、物見櫓は有りますが

天守閣はありません。

 

 

元の川越城は広大で、堀に囲まれておりましたが、現在は本丸御殿

のみが残されています。

 

 

現在残されているのは↓これだけ。

 

 

 

お城には、御朱印が用意されています。

 

 

寺社が用意する御朱印は「お札と同じ扱い」又は「参拝記念の扱い」

で、寺社によって扱いが異なりますけど、お城の場合は

「 見学記念 」 ですね。

 

中は自由に写真を撮ることが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

復元した鎧。

 

    

 

 

東武HPの東武沿線おでかけ情報

 

かなり長い文章ですが、川越の歴史がわかりやすく説明されています

ので、全文転載します。

 

--------------------------

 

川越城 東日本に唯一現存する「本丸御殿」とは? その秘密を探る

 

古い町並みが残る 「 小江戸 」 川越。

土蔵や商家などが立ち並び、訪れる人々を楽しませてくれます。

その川越の歴史を語る上で欠かせないのが 「 川越城 」 です。

2006年に 「 日本100名城 」 の一つに選ばれています。

 

室町時代にこの地を治めていた一族である扇谷上杉氏がライバル

勢力だった足利家に対抗するために築城した川越城。

1457年に完成しました。

しかし、1537年に北条氏綱によって占拠。 1546年に扇谷上杉家は

かつての敵の足利家などと連合を組んで、川越城を包囲します。

しかし、北条氏康の奇襲によって総崩れとなり、北条家による

川越城の支配が確立されました。

 

その後、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、前田利家の攻撃を受けて

落城。徳川家康が関東に配置換えになった時に、川越も家康の領地と

なりました。

現在名残を見ることができる川越城の縄張りを築いたのは、扇谷上杉

持朝 ( おおぎがやつ・うえすぎ・もちとも ) の家臣、太田質正 

( ただまさ )・太田道灌 ( どうかん ) 親子。

太田道灌は築城の名人として知られ、江戸城も設計した人物です。

以後、徳川家の重臣が城主を務め、天草の乱を鎮圧した松平信綱や

5代将軍綱吉の側近だった柳沢吉保などもこの地を治めました。

 

戦国時代から江戸時代まで、軍事と政治の要所だった川越城。

歴史好きな方には外すことのできない名所です。

 

川越城の 「 本丸御殿 」 に関する記録は、国立歴史民俗博物館が

所蔵している 「 江戸図屏風 」 に描かれている様子がもっとも古い

もの。

その屏風には、高い城壁に囲まれた川越城の一番奥に本丸御殿の

姿が描かれています。

 

腕に鷹をとまらせた鷹匠も描かれていることから、本丸御殿は三代

将軍家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した 「 御成御殿 

( おなりごてん )」 だったのではないかと考えられています。

 

家光以降の将軍は川越城を利用しなくなったため本丸御殿は

取り壊され、更地のままの状態が続きました。

しかし、1846年に藩主の住居だった二の丸が火災により焼失。

その2年後に藩主の松平斉典 ( なりつね ) が空き地だった本丸

御殿の場所に新しく御殿を建設しました。

それが今残っている本丸御殿です。 当時の広さは1025坪 

( 約3400㎡ ) で、16棟の建物を有していました。

 

明治維新以降、川越城は少しずつ縮小されましたが、現在も大広間、

移築復元された家老詰所、および玄関が現存しており、埼玉県の

重要文化財に指定されています。

日本で本丸御殿の大広間が現存しているのは川越城と高知城だけ

であり、非常に貴重な文化遺産として保存されています。

 

現在の川越城は最盛期に比べるとかなり縮小されていますが、

本丸御殿以外にも様々な遺構を見つけることができます。

 

本丸御殿のすぐ隣にある三芳野神社はもともとこの地に鎮座していた

神社で、川越城を築城した太田親子が築城の際に 「 天神曲輪 」 と

呼ばれる現在の位置に移築。以後、歴代の城主や領民から信仰

されてきました。境内には天神曲輪の一部が今も残されています。

また、三芳野神社は童謡 「 とおりゃんせ 」 の発祥の地と言われて

います。

 

現在は市街地となっている場所にも遺構を見つけることができます。

川越市役所前はかつて 「 西大手門 」 があった場所。

そこから西に徒歩数分の場所にある 「 中ノ門堀跡 」 は松平信綱

の大改修の際に作られた3つの堀のうちの一つで、写真のように

一部が保存されています。

 

また、二の廓があった場所には川越市立博物館が建っていますが、

その敷地内には川越城の七不思議のひとつ 「 霧吹きの井戸 」 が

あります。

敵が攻めてきた時に井戸の蓋を開けると、霧が吹き出て城を隠して

くれたという言い伝えによるものです。

このため、川越城は 「 霧吹き城 」 という名前でも呼ばれていました。

 

関東の重要拠点だった、川越城

 

築城の名人、太田道灌が手がけた川越城。

戦国時代が終わり江戸の世になっても関東の要所として存在感を

示した名城らしく、城主や領民から信仰を集めた三芳野神社や、

川越城七不思議の井戸、中ノ門堀など、往時をしのばせる遺構が

今も残されています。

 

そして何と言っても、日本に2つ、東日本ではここにしか残っていない

本丸御殿。この存在は、川越の歴史だけでなく日本における城郭の

歴史を知る上でも決して見逃すことはできません。

 

本丸御殿の堂々たる佇まいに触れ、武士の時代の栄華に想いを

馳せてみるのも、ぜひ味わっていただきたい 「 小江戸 」 川越の

楽しみ方の一つです。

https://www.tobu.co.jp/odekake/area/tojo-line-south/tojo-line-south006.html

 

襖絵は江戸時代のものがそのまま残されています。

 

 

 

 

以上。