拝殿に向かって左前に人麻呂神社が鎮座されます。
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柿本人麻呂 ( 人丸 ) 神社
万葉の歌人、柿本人麻呂を祭神とする旧武蔵国唯一の社である。
人麻呂の子孫である綾部一族が、戦国時代川越に移住した際に奉斎
した神像は芳野朝の歌人である頓阿上人の作と伝え、神像をお納め
する宮型は明治初期の工芸家柴田是真により製作された。
今日では、歌道上達、学業成就の神としてのみならず、
人丸 = 火止まる ( 火防 )
人丸 = 人産まる ( 安産 )
の神として延宝からの参拝客も多い。
( 境内説明文 )
狛犬の頭には盃状穴 ( はいじょうけつ ) があります。
左右ともに、中央に直径:6~7cmほど、深さ:3cmほどの大きな穴、
その隣りに直径:3㎝ほど、深さ:1㎝ほどの小さな穴。
享保三年九月吉日の銘が彫られています。
神職の方によれば、何の為に彫られた穴か分からない、という
ことでした。盃状穴は、日本では古墳時代から昭和三十年代頃
まで彫られています。
その目的は、子授かりや安産の祈願と推測されています。
「 人丸 = 人産まる ( 安産 ) 」 という信仰がいつから
広まったのか分かりませんが、西日本に鎮座される多くの
柿本人麻呂神社では 人麻呂 = 人生まる として安産祈願が
行われています。
狛犬は享保三年奉納ですので、盃状穴はそれ以降に彫られて
います。人生まるお社の狛犬だから盃状穴が彫られたのか、
たまたま彫られた後に、人麻呂 = 人生まる の信仰が
拡がったのか?
八坂神社の後方には、多くの境内社が鎮座されます。
左から、稲荷神社、日吉神社、加太粟嶋神社。
左から、菅原神社、松尾神社。
左から馬頭観音、御社名不明、八幡神社、御社名不明。
左から稲荷神社、春日神社。
奥にさらに境内社が鎮座されます。
子ノ権現社 ( 大己貴命、天日鷲命 )
左から疱瘡神社、厳島神社、御社名不明社、御社名不明社、水神社。
左から嶋姫神社 ( 祖島姫命 )、雷電神社 ( 大雷神社 )、三峰神社。
三峯神社は神狐が置かれていました。
蛇霊神社 ( 蛇子天 )。
富士塚かと思ったら、御嶽神社。
琴平神社。
八坂神社に向かって右に、絵馬掛けがあります。
絵馬掛けの奥に、鈴木聞多選手の記念碑が建立されています。
大正二年三保谷村に生まれ、慶応技術大学卒、日立製作所所属。
短距離走で優れた成績の残し、昭和十五年の東京オリンピックの活躍を
期待されたが、昭和十四年、中華民国河南省で散華される。
( 碑文抜粋 )
二本並んで聳える御神木の欅。樹齢は約600年だそうです。
拝殿に向かって左に大田道灌公御手植えの矢竹。
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大田道灌公御手植えの矢竹と献詠和歌
老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪
長禄元年 ( 1457 ) 川越城の築城にあたった大田道真・道灌父子は
城の戌亥 ( 神門 ) の方角に既に鎮座していた当社を城の守護神と
して篤く崇敬した。
特に道灌は、当社に詣でて自らこの矢竹を植え、冒頭の和歌を献納
した。
( 境内説明文 )
その右に義勇奉公日が建立されています。
鈴木荘六陸軍大将の揮毫です。
その右に護国神社が鎮座されます。
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川越市護国神社 例祭日 四月十二日
西南の役以降の川越市出身の英霊2,970柱を奉斎する。
明治十四年七月十二日当時の川越町長岡田秋業等が内務省の
特許を受け招魂社として建立し、例祭日を西南の役出征の日
に因み四月二十日と定めた。
以来、祭祀の主宰は旧氏族の温知会・在郷軍人連合分会と
引き継が
れたが、昭和十五年川越市議会の具穴により川越市の公祭
となり、同年社名を護国神社と改めた。
昭和十年の社殿改築遷座祭には山本五十六中将 ( 当時 ) が
参列し盛大に斎行された。
国と郷土川越とを守ために清らかな命を捧げられた英霊の
もとには、今日も多くの市民が集い、慰霊の誠を捧げ続けて
いる。
( 境内説明文 )
入って来た時とは別の参道の鳥居です。平成二年の建立。
木製としては国内随一の規模だそうです。
笠木の幅:20m、 柱周:3.45m
勝海舟直筆。
日本庭園に置かれた戌岩。
拝殿からの眺め。
以上。