地下鉄東山線:中村公園駅を上った交差点に、大鳥居が聳えています。

 

 

 

参道です。名古屋らしく、とても広い。

 

 

参道には、秀吉公に使えた武将の説明パネルがありました。

 

福島正則公。

 

 

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福島正則は、尾張国海東郡 ( 現あま市 ) の出身で、陽明は市松。

母が豊臣秀𠮷の叔母であったともいい、幼い時から秀吉に仕えた。

天正十一年 ( 1583 )、賤ケ岳合戦の活躍により五千石を与えられ、

いわゆる賤ケ岳七本槍の筆頭とされた。

伊予今治城主を経て、文禄四年 ( 1593 )、清州 ( 清須 ) 24万石の

城主となった。

 

慶長三年 ( 1598 ) に秀吉が没すると石田三成と対立し、同五年

( 1600 ) の関ヶ原合戦で徳川家康につき、その功により安芸広島

49万石を与えられた。

 

しかし、元和五年 ( 1619 )、広島城の無断修繕を理由に改易され、

信濃高井野藩4万5千石に移された。

さらに寛永元年 ( 1624 ) に正則が死去すると、幕府の使者の到着前

に遺体を火葬したとして高井野藩自体が取りつぶされた。

 

秀吉子飼いで怪力・剛直の猛者としての逸話も多いが、晩年は江戸

幕府に翻弄され、不遇であった。

                         ( 説明文 )

 

加藤清正公。

 

 

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加藤清正 ( 1562~1611 ) は尾張国愛知郡中村で生まれた。

豊臣秀吉の一族であった縁から秀吉に仕えたという。

天正十一年 ( 1583 ) の賤ケ岳合戦で武功をあげ、秀吉の九州平定後

肥後北半国を与えられ、熊本城を建てて居城とした。

 

慶長三年 ( 1598 ) に秀吉が没すると、遺児の秀頼を守りつつ徳川家康

に接近し、慶長五年の関ヶ原合戦では家康に属した。

慶長十五年には、名古屋城天守石垣の普請を家康に命じられ、

来名した。

 

この時、父母を弔うため故郷中村の妙行寺本堂を再建したと伝えられる。

翌年の二条城での秀頼と家康の会見に隣席し、その帰路発病して

50歳で没した。

 

この肖像画は、蛇目紋をつけた烏帽子形の冑をかぶり、片鎌槍を持つ

清正を描く。

勇猛な武将であるとともに築城や治水に秀で、名君として慕われた清正の

実直な人柄がうかがえる。

 

                           ( 説明文 )

 

蜂須賀正勝公。

 

 

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蜂須賀正勝は、大永六年 ( 1526 )、尾張国海東郡蜂須賀村 ( 現あま市 )

の土豪蜂須賀正利の子として生まれた。

当初小六と名乗り、美濃の斎藤道三に仕え、ついで清州 ( 清須 ) の

織田信長の家臣となった。

 

さらに10歳年下の豊臣秀吉に従い、天正八年 ( 1580 ) の播磨三木城

攻めの功により竜野城を与えられた。

四国攻めなど軍功を重ね阿波一国 ( 現徳島県 ) の支配を秀吉から

約されたが、高齢を理由に固辞し、阿波は長子家政に与えられた。

 

正勝は大阪城の秀吉に仕え続け、天正十四年 ( 1586 )、61歳で没した。

秀吉が最も信頼した側近の一人であった。

 

正勝没後、小六の奈で盗賊をしていた若き日の正勝が、日吉丸と

名乗ってい幼い秀吉を三河の矢作橋で見出すという話しが生れた。

矢作橋は当時はまだなく、作り話とされているが、小六と秀吉の出会い

として親しまれている。

                           ( 説明文 )

 

 

 

 

 

    

 

    

 

右に手水舎。

 

 

 

 

 

    

 

愛知県の公式観光ガイド 「 Aichi Now 」 HPの記事を転載します。

 

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明治18年、豊臣秀吉公の生誕地、尾張中村( 現・名古屋市中村区 )に

創建されました。

豊臣秀吉公を御祭神に、摂社では加藤清正公をお祀りしてます。

出世・開運・茶道・建設の神として地元中村をはじめ全国からも多くの

人たちが参拝に訪れます。

https://www.aichi-now.jp/spots/detail/1952/

 

 

 

本殿に向かって左にラジオ塔が安置されています。

プロレス中継で有名なテレビ塔の前の時代のものです。

 

 

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ラジオ塔

 

ラジオ塔は昭和御五年以降、ラジオ放送を市民が自由に聞けるようにと

日本各地に設置されるようになりました。

中村公園には、昭和十七年に名古屋市東宿・日比津土地区整理組合の

寄附により設置されました。

 

塔の上部には受信機やスピーカーが置かれ、塔の周りで市民が放送を

聞いていました。

市内には10箇所ほど設置されましたが、現在は中村公園の他に志賀

公園、松葉公園に当時のラジオ塔が残されています。

 

名古屋市

                          ( 説明文 )

 

本殿の後方に初代中村勘三郎生誕記念像。

 

 

 

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初代中村勘三郎生誕記念像 建立の由来

 

豊臣秀吉公・加藤清正公の生誕地として知られる当地、名古屋市中村

が生んだもう一人の偉人が初代中村勘三郎である。

 

初代中村勘三郎は慶長三年 ( 1598 ) 頃から万治元年 ( 1658 ) 頃まで

を生きたとされる歌舞伎役者、京都で大蔵流狂言を学び、創作した舞踊

は後に 「 猿若舞 」 と呼ばれ、当時大変な人気を集めたと伝わって

いる。

 

それにちなみ、饗から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、寛永

元年 ( 1624 ) 頃、中橋南地 ( 現在の日本橋付近 ) で 「 猿若座 」

を開設、江戸で初めての常設の芝居小屋であり、初代中村勘三郎が

江戸歌舞伎の開祖といわれる由縁である。

以後、明治まで幕府の認可を受けた江戸三座のうちにあり続けた。

 

慶安四年 ( 1651 ) 頃に堺町に移転。

その際、中村勘三郎を名乗り、この時猿若座の名前も中村座と改め

られたと言われている。

 

 

この中村姓の発祥は生地中村であると中村屋一門にも公認されており、

平成十八年 ( 2006 ) には区内同朋江東学校で十八代目中村勘三郎

の襲名披露公演も行われている。

 

出自には諸説あるが 「 甲子夜話 」 ( 江戸後期 ) にも 「 生国尾州

愛知郡中村 」 と記され、祖父右近の兄にあたる中村式部小輔一氏

は豊臣三中老の一人であり、秀吉公が織田信長公の臣下にあるうち

から仕えていたとの説もあり、当地との浅からぬ縁が伺える。

 

かかる経緯により、中村勘三郎家、中村屋一門と当地の関わりを

嘉して、平成二十八年 ( 2016 ) 地元団体が 「 初代中村勘三郎

誕生像を中村公園に建立する会 」 を結成、篤志家の協力を得て

ここに初代の銅像を建立し、その道徳を顕彰する運びとなった。

 

区民がこの銅像を仰いでは郷土の生んだ偉人と歴史文化を誇り、

輝かしい未来を築かんとする礎となることを願う。

 

豊国神社宮司 近藤一夫

                         ( 説明文 )

 

その隣りに、明治四十三年にこの地を行啓された、のちの大正天皇

御手植えの松が聳えています。

 

 

 

本殿に向かって右に、秀吉公誕生地の碑が建立されています。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。