伊勢文化舎が企画・発行している新聞 「 お伊勢さんニュース 」
第一号 ( 令和五年七月五日 ) の 「 倭姫の巡行 」という記事で、
元伊勢が紹介されておりました。転載します。
地図3枚を掲載していますが、全て同じ地図です。
いくつかの元伊勢には、複数の候補地がありますが、この記事では
代表的な候補地を記述しています。
例えば、「 5番 吉備の名方 ( なかた ) の浜ノ宮 」 は、この記事では
「 岡山市北区、伊勢神社か 」 と書かれていますが、岡山市から
広島県の福山市までの間に、5社の浜ノ宮の候補の神社が鎮座されて
います。
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ここでは 『 倭姫命世記 』 ( 以下 『 世記 』 と略 ) によって、巡行の
道筋をたどってみよう。
大和から伊賀・近江へ
まず豊鍬入姫命の巡行地から見ていこう。 ( ) 内は現在の推定地である。
1 倭の笠縫邑 ( 奈良県桜井市三輪 檜原神社か )
2 丹波の与佐の宮 ( 京都府宮津市大垣、籠神社か )
ここで四年間祀られた時、豊受大御神が天上より降りられ、天照大御神の
お食事の世話をされたと記している。
3 倭の伊豆加志 ( いつかし ) の本の宮 ( 桜井市初瀬、與喜天満神社か )
4 紀の奈久佐 ( なぐさ ) の浜の宮 ( 絵和歌山市秋月、日前国懸神宮か )
5 吉備の名方の浜の宮 ( 岡田山市北区番町、伊勢神社か )
6 倭の御堂の嶺の上の宮 ( 桜井市三輪、三輪山あたり )
倭姫は神々の住む山と崇められていた三輪の地から、大御神を戴き奉り、
お心に叶う永遠の宮地を求めて旅立つ。
側近として、安倍・和珥・中臣・物部・大伴という名だたる一族の五人の
重臣たちが同行したことが記されている。
まず向かったのは 『 記紀 』 が記す菟田 ( 宇陀 うだ ) である。
7 倭の宇多の秋の宮 ( 奈良県宇陀市大宇陀、阿紀神社か )
8 大和の佐佐波多の宮 ( 宇陀市榛原、篠畑 ( ささはた ) 神社か )
阿紀神社は、天照大御神を祭神とし、水田に囲まれた杉木立の中に、屋根に
十本の鰹木が並ぶ神明造の本殿が建つ。
宇陀の阿貴野は神武天皇東征の由緒ある地でもあり、ここで倭姫は四年間、
お祀りしている。
広い境内の中央には趣きある能舞台があり、六月には薪能が催されると
いう。
篠畑神社も、大きな鳥居をくぐって石段を上っていくと神明造の本殿があり、
天照大御神を祭神としている。
倭姫とこの地で出会った女が、神にお仕えする 「 大物忌 」 として旅に
同行することになったことが記されている。
9 伊賀の隠市守 ( なばりいちもり ) の宮
( 三重県名張市平尾、宇流富志禰 ( うるふしね ) 神社か )
10 伊賀の穴穂 ( あなほ ) の宮
( 伊賀市上神戸、神戸 ( かんべ ) 神社か )
神戸神社は広々とした田園の中、樹木が生い茂る境内に、神宮の古材を
譲り受けて造営されたという茅葺・神明造の本殿が建つ。
倭姫はここで四年間お祀りされ、御饌 ( みけ ) のために神田や鮎が献上
されたと記されている。
神宮との関わりは今尚深く、六月の月次祭 ( つきなみさい ) には毎年、
干鮎1800尾が献納されるという。
11 伊賀の敢都美恵 ( あへつみえ ) の宮
( 伊賀市拓殖町、都美恵 ( つみえ ) 神社あたりか )
12 淡海 ( おうみ ) の甲可日雲 ( こうかひくも ) の宮
( 滋賀県甲賀市土山町、垂水頓宮跡あたりか )
13 淡海の坂田の宮 ( 米原市近江町、坂田神明宮あたりか )
美濃・尾張を経て伊勢国へ
14 美濃の伊久良河 ( いくらがわ ) の宮
( 岐阜県瑞穂市居倉、天神神社あたりか )
天神神社は一面に拡がる田畑の中、樹々に囲まれた境内に能舞台の
ような大きな拝殿がある。
本殿の後ろに回ると、御神木のタブの大樹の横に 「 御船代石
( みふねしろいし ) 」 と呼ばれ、神の宿る石と伝えられる大石が2つ
並び、後方に天照大御神と倭姫を祀る境内社が建っている。
周辺からは鏡や勾玉などが出土し、古代の祭祀遺跡として保護されて
いるという。
15 尾張の中嶋の宮
( 愛知県一宮市今伊勢町本神戸、酒見 ( さかみ ) 神社あたりか )
16 伊勢の桑名の野代の宮
( 三重県桑名市多度町下野代、野志里 ( のしり ) 神社あたりか )
17 鈴鹿の奈具波志 ( なぐわし ) の忍山 ( おしやま ) の宮
( 亀山市野村、忍山神社あたりか )
18 伊勢の藤方の片樋 ( かたひ ) の宮
( 津市藤方、加良比乃 ( からひの ) 神社か )
19 伊勢の飯野の高宮
( 松坂市山添町、神山 ( こうやま ) 神社あたりか )
20 伊勢の佐佐牟江 ( ささむえ ) の宮
( 多気郡明和町山大淀、竹佐々夫江 ( たけささぶえ ) 神社あたりか )
大与度 ( おおよど ) 社
( 明和町大淀、竹大與杼 ( たけおおよど ) 神社あたりか )
民家の立ち並ぶ旧道沿い、寺院に隣接する小さな社殿地が竹佐々夫江
神社で、そこからほど近い旧道の交差する門に、こんもりと生垣に
囲まれて竹大與杼神社がある。
『 世記 』 によると、船で大淀の浦を高校していた時、風浪がなく海が穏やか
であったので、倭姫命が大いに喜ばれ、大與度社を定められたという。
この時、天照大御神より
「 この神風の伊勢の国は、即ち常世の浪の重浪帰する国なり。
傍国の可伶し国なり。この国に居らむと欲ふ ( おもふ ) 。」
とのお告げ「があったと記されている。
五十鈴川を遡り永遠の宮地へ
倭姫命は大神のお教えに従って、伊勢の国の中で最上の宮地を求めて
西に東に、さらに南へと旅を続ける。
21 伊勢の伊蘓 ( いそ ) の宮
( 伊勢市伊蘇町、伊蘇神社か )
22 伊勢の瀧原の宮
( 度会郡大紀町滝原、瀧原宮 )
23 伊勢の矢田の宮
( 伊勢市楠部町、矢田宮跡 )
24 伊勢の家田 ( やた ) の田上 ( たがみ ) の宮
( 伊勢市楠部町、神宮神田あたり )
25 伊勢の奈尾之根 ( なおしね ) の宮
( 伊勢市今在家町、津長神社あたり )
小船で外城田 ( ときた ) 川から宮川を遡り瀧原へ。
南に下って二見の浜を廻り、五十鈴川を上流へ。
この工程は 『 世記 』 にのみ詳しく記されている。
そしてついに倭姫は、五十鈴の河上に天照大御神の御鎮座に相応しい
場所を得られた。
この時、川の際で長い旅の汚れを落とすように御裳 ( みも ) の裾を
お洗いになり、その川の辺りを 「 御裳裾 ( みもすそ ) 川 」 と
名付けたという。
垂仁天皇の御代二十六年の冬と記されている。
- 以上。