伊勢市のマンホールは、お伊勢参りです。

 

 

内宮から伊勢街道を北上しています。

 

 

百五銀行。

 

 

百五銀行に飾られていた、遷宮で使われる御白石の車と木曳車。

全開の式年遷宮では、実物を見ました。

 

 

猿田彦神社は、御木本通りに鎮座されます。

 

 

 

 

鎮座地:三重県伊勢市宇治浦田2-1-10

 

手前の松坂牛専門店。

 

 

 

 

    

 

    

 

手水舎は、シールだらけです。

 

 

 

手水鉢には、盃状穴 ( はいじょうけつ ) がたくさん彫られています。

 

 

盃状穴は女陰で、子授かりや成長を願ったものと推測されています。

中央の2つは、標準的な盃状穴。

左下に2つ並んでいるのも盃状穴だろうと思いますが、盃状の穴では

ありません。リアルですね。

 

 

全部で10個近く彫られていました。

綺麗に彫られているのを一個だけ掲載します。

 

 

手水鉢に盃状穴が彫られていることに気付いたのは、約1年前のことです。

三重県や愛知県ではわりと普通に見られますので、蕃塀のように伊勢・

尾張地方の特徴だろうと思っておりましたが、日本全国見られるそうです。

 

庚申塔、石仏、月夜講の石塔などにも見られ、大神神社の摂社:若宮神社の

石段にも彫られています。

 

一方、盃状穴の研究は殆どされておらず、民俗の空白領域だそうで、

それじゃあ私がやってやろうじゃないか!などと思ったのですが、

日本はおろか、インド、中国、アフリカ、ヨーロッパでも見られ、また、

江戸時代以降に拡がったものかと思いきや、石棺に彫られている古墳も

あるほど歴史が古いのだそうです。

 

現代では、殆どの赤ん坊が無事に大人に成長しますが、そのようになった

のはつい最近のことです。

 

昔は赤ん坊が無事に生まれない事も多く、生まれても成長するまでに

どんどん亡くなってしまう。

親たちがやれることは、ひたすら拝むしかなかったのですから、

ありとあらゆる物が願かけの対象になったのだろうと思います。

 

結果、現代の私達が研究しようにも、どこから手を付ければよいのか、

どのエリアに絞ればよいのか、など、さっぱりわかりません。

今後の寺社参拝の折、注意深く石造物を観察するしかありません。

 

 

    

 

 

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猿田彦神社

 

猿田彦大神は、天孫瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと ) をこの国に御案内

された後、ここ伊勢の狭長田 ( さながた ) 五十鈴の川上の地を中心に

国土の開拓・経営につくされた地主神と伝えられています。

 

また大神の御裔の大田命は、皇女倭姫命が神宮御鎮座の地を求めて

巡歴されたときに大神以来護り続けてこられた聖地を献り、

伊勢の神宮が創建されました。

当社はその直系の子孫が祖神を祀ってきた神社であります。

 

大神は全てのことに先駆け、人々を善い方に導き、世の中の行方を

開く「 啓行 ( みちのひらき ) 」 の神として識られています。

その信仰は全国的な拡がりをもち、方位除・災除・地鎮・事業繁栄・

交通安全・開運などの御祈祷が連日行われています。

 

毎年五月五日に斎行される御田祭 ( おみた、県・無形文化財 ) も

古い伝統にもとづいています。

 

                       ( 境内説明文 )

 

三重県神社庁HPの記事を転載します。

 

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主》 猿田彦大神

配》 大田命

 

当社は玉串大内人たる宇治土公が、その祖先の猿田彦大神と大田命を

祀り、古くから広く崇敬されて来た神社である。

創祭年代は不詳であるが、往古来宇治土公家は祖神まつりを行い、

建久年間 ( 1190~1199 ) までは、現在地に近い中村町興玉の森で

祀られたと伝えられる。

 

その後も神宮で大内人を勤めつつ、邸内の祭祀を続け、時代と共に

一層増加する参詣衆のため、宇治土公定彦神主の代の延宝5年( 1677 )

12月、現在地に祀られたと言う。

 

慶応3年( 1867 )5月、社殿回禄の災に罹り、明治11年8月工を

起こして本殿が竣工した。

更に昭和11年、49年には造営本殿遷座祭が行なわれた。

 

記紀をはじめ古典によると、猿田彦大神は上は高天原を光し、下は葦原

中つ国を光し、天孫降臨を天八衢に待ちむかえ、日向の高千穂の觸之峰に

導き奉った。

続いて伊勢の狭長田五十鈴の川上に天宇受売命に送られて来られたと

伝えられている。

 

垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が、皇大神宮鎮祭の地を求めて巡歴される

にあたり、猿田彦大神の裔で宇治土公の祖である大田命は、祖神からの

伝えにより、これを迎え、五十鈴川上の霊地を献じ、鎮祭に尽くされた。

 

神宮の鎮祭と御遷宮奉仕に関連して、大神は地祭り、方除、建設の御神徳、

また大は世の行手を示し、小は各人の道を開きたまう大神としてみちびきの

御神徳高く、全国的に多くの崇敬者を有し、尊崇を集めている。

https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=2959

 

拝殿に向かって右前に、佐瑠女 ( さるめ ) 神社が鎮座されます。

 

 

 

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佐瑠女神社

 

御祭神 天宇売命 ( あめのうずめのみこと )

 

天孫瓊瓊杵尊御一行を待ち迎えられた猿田彦大神と最初に言葉を

かわされたのが御祭神です。

天孫御一行を日向の高千穂峯に導かれた後、本拠地に戻られる大神様

とともに五十鈴の川上のこの地においでになり、「 さるめ 」 という

姓をいただかれました。

 

また、天照大御神が天岩戸に籠られて世の中が暗闇になたっときに

岩戸の前で神楽をされて、お出まし戴く契機を造られた話しは

よく知られています。

そのため、芸能・鎮魂・縁結びの祖神として広く信仰を集めています。

 

                        ( 境内説明文 )

 

 

 

佐瑠女神社の左に、細石 ( さざれいし ) と招霊木 ( おがたまのき )。

天鈿女命は、招霊木 を持って舞います。

 

 

本殿の後方に、神田が拡がっています。

 

 

 

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御田祭 ( みたさい )

 

当神社は御本殿に猿田彦大神と相殿に大田命をお祀りし、大神の末孫

宇治土公 ( うじとこ ) 家が代々奉仕してきた神社です。

 

大神様は天孫降臨の祭に御一行を高千穂の峯にみちびきされた後、

ここ伊勢を本拠としてこの国を開拓指導されました。

また御裔の大田命様は垂仁天皇の御代に各地を巡歴された倭姫命に

五十鈴の川上の霊域を献上され、現在の伊勢の神宮が創建されたと

言われております。

 

このように、古来の深い御神縁と御神跡が猿田彦神社の祭事として

伝えられて来たものが、この御神田で執り行われる御田祭 ( 通称:

おみた ) です。

 

当日、12時15分修祓式に始り、13時より豊作を祈る本殿祭が斎行

されます。

続いて御神田に参進し神田祭を斎行、趣ある田楽の音に合わせて挿苗。

植え終わると団扇角力でその歳の豊作豊漁を占います。

次に拝殿前に参進し、豊年踊が舞われ、最後は団扇角力の大団扇を

破る団扇破りが行われます。

この団扇の紙片は災除けなどのお守りになるといわれております。

 

この日奉仕する植方 ( うえかた )・囃方 ( はやしかた ) の装束は桃山

時代の風俗を残しており、八乙女等ともども奉仕する様は、在りし

時代ののどかな風景を感じさせてくれます。

 

本殿祭から始まる一連の祭事は三重県無形文化財に指定され、地元の

方々によって変わらぬ奉仕が続けられています。

御田祭に合わせ 「 御田扇 」「 福しょうぶ 」「 飛魚 」 が

特別授与品として授与されます。

 

「 御田扇 」 は恵美須・大黒の描かれた扇で五穀豊穣、子孫繁栄

などのお守りとして、「 福しょうぶ 」 は全ての物がすくすくと

育つように願いを込めて、また 「 飛魚 」 は特殊神饌として荒波を

乗り切って飛躍する飛魚の如く激しい雨風に打ち勝つようにと

神田祭に供えられ、それをかたどり奉製した品が授与されます。

 

                         ( 境内説明文 )

 

 

 

 

 

 

鳥居からの眺め。

 

 

以上。