神戸市のマンホールは、お洒落です。

 

中央に風見鶏の館、市章と水道局の六剣水マーク。

時計廻りに、神戸港と神戸大橋、ガス灯、

うろこの家、ポートタワーと神戸海洋博物館。

 

 

芦屋公園の松が描かれています。

 

 

JR東海道本線の北200mあたりを、東に向かって歩いています。

ー>瀬戸内海沿岸なのに、なんで東海道本線という名前なのか不思議

      なのですが、東海道本線は東京から神戸までをいいます。( 約600㎞ )

 

飛び出し風見鳥。

 

 

 

JR芦屋駅から西へ600mほどの高級住宅街の中に、公光大神・業平大神は

鎮座されます。

 

 

 

 

御神域に入った右に手水鉢。

 

 

 

祠の中には2つの石塔が祀られています。

参道の入口には、左の門柱に公光大神、右の門柱に業平大神と彫られて

おりましたので、その並びだろうと思います。

 

 

JR芦屋駅のすぐ南に、業平町があり、どうやらここに業平公が住んでいた

らしい。そのすぐ南には公光町があります。

『 伊勢物語 』 の 「 昔男 」 は在原業平公とされておりますが、その87段

「 布引の滝 」 に

 

  昔、男、津の国、莵原 ( うばら ) の郡 ( こおり )、芦屋の里に、

  しるよしして、いきて住みけり。昔の歌に

  

  芦の屋の 灘の塩焼き 暇 ( いとまなみ )

  黄楊 ( つげ ) の 小櫛 ( おぐし ) も ささず来にけり

 

と詠みけるぞ、この里を詠みける。ここをなむ芦屋の灘とは言ひける。

この男、なま宮仕へしければ、それをたよりにて衛府 ( えふ ) の

佐 ( すけ ) ども、集まり来にけり。

この男の兄 ( このかみ ) も衛府督 ( えふのかみ ) なりけり。

 

----------------------------

昔、男は、摂津国莵原郡芦屋の里に住んでいた。

  芦屋の灘での塩焼きが忙しくて暇がないので、つげの櫛をささないで

  ( 身なりを整えないで ) 来てしまいました。

とその男が詠んだ歌は、この里を詠んだのである。

この男はたいした地位ではない宮廷勤めをしていたので、それを頼りに

して衛府の次官たちも集まってきた。

この男の兄も衛府の佐兵衛督であった。

 

---------------------------

 

業平公は貞観五年 ( 853 ) 39歳で佐兵衛佐、貞観六年に近衛権少将に

なっています。

兄君の行平公は貞観六年に47歳で佐兵衛督になっており、集まってきた

人々の中に行平も居らしたのでしょう。

 

ちなみに、芦屋から20㎞ほど西には、業平公の兄君である行平公が、

二人の女性と住まわれた松風庵があります。

 

 

87段 「 布引の滝 」 は、昔男たちが布引の滝を眺めに行って、歌を詠んだ

という内容の段です。

 

「 芦の屋の ~ 」 の歌を根拠に、業平公が芦屋に住まわれたとされており、

その家は芦屋駅の南側にあったという伝承があり、現在の町名になっています。

 

業平大神と一緒に祀られている公光大神の名は、業平町のすぐ南にある町

「 公光町 」 となっています。

「 公光 」 は 『 伊勢物語 』 には登場しませんが、『 伊勢物語 』 を

本説 ( 原作 ) とする謡曲 『 雲林院 』 にワキ ( 脇役 ) として登場します。

 

『 雲林院 』 は、子供の頃から 『 伊勢物語 』 を親しんでいた公光が、

雲林院を訪ねた時、シテ ( 主役 ) の在原業平の霊が現れ、『 伊勢物語 』 

6段 「 芥河 」 について公光に語りかけるというものです。

「 芥河 」 は

 

  昔、男 ( 業平 ) がいた。

  男は、高嶺の女を盗み出して、暗闇のなか、逃げていった。

  途中、芥河を渡って遠くへ歩いていったが、雨が激しく降りだしたので、

  途中にあった粗末な蔵へと女を隠したが、そこは鬼の出る里で、

  蔵の中にいた鬼が女を一口に喰ってしまった。

  女は叫び声を上げたが、男の耳には届かなかった。

  翌朝、男が見てみると女の姿はなく、男は嘆き悲しんだのであった…。

 

  この物語に登場する女は、二条の后 ( 清和天皇の后の藤原高子 ) で、

  美しい人であったために盗み出されたが、后の兄の堀河基経、長男の

  国経大納言に取り返された。それを、ここでは 「 鬼に食われた 」 と

  表現したのである。二条の后がまだ若くて、お后になる前の話だ。

 

という、物語の説明付きの段です。

光源氏に勝るとも劣らない、いけめんのプレイボーイとして知られる

在原業平の、武勇伝の一つです。

 

脇役の芦屋公光公のモデルは、藤原公光公という説があります。

 

在原業平 天長二年 ~ 元慶四年 ( 825~880 )

藤原公光 大治五年 ~ 治承二年 ( 1130~1178 )

 

名前が地名になっておりますし、祠に祀られているのですから、何らかの

関係あるのだろうと思いますが、藤原公光公と芦屋の関係については、

わかっておりません。

 

芦屋周辺は阿保 ( あぼ ) 親王の領地だったので、阿保親王の足跡は

複数みられます。

 

 

公光大神・業平大神の祠の住所:兵庫県芦屋市月若町6-3

 

祠からの眺め。

 

 

以上。