鯖大師に向かって左に蓮生院 ( れんしょういん、本尊は不動明王 )。
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塔頭三院の一つで、「 蓮生 」 とは熊谷直実が 「 蓮生坊 」 と名乗った
ことに由来する。
直実は一の谷の合戦で戦死した平敦盛菩提の為、法然上人のもとで
修行し、諸国行脚の途中、須磨を訪れたといわれている。
大正五年、花火大会の飛火のため出火焼失したが、昭和九年不動明王を
本尊として現在地に再建、成田山不動明王分霊も奉祀し不動明王信仰の
中心となっている。
本堂横には厄除大師堂があり、右手に剣を持つ秘鍵大師が祀ってある。
また国文学者、大井広の
「 明減の ひかりをおくる 灯台は いづこにあらむ 寂しき海はら 」
の歌碑が作者の短歌の師、太田水穂の筆により建てられている。
https://www.sumadera.or.jp/keidai/index.html
今回、神戸市を久しぶりに散歩しようと決め、スマホで参拝先を探していて、
たまたま、須磨寺が源平合戦ゆかりのお寺であることを知りました。
須磨寺を参拝した第一の目的は、敦盛公の塚の参拝です。
一の谷合戦の地図は、須磨寺HPに掲載されています。
https://www.sumadera.or.jp/genpei/index.html
謡曲 『 敦盛 』 は、平家物語 『 敦盛最期 』 を本説 ( 原作 ) としています。
元は平家の一族であった源氏方の熊谷直実が、手柄をたてるため、
戦に敗れて舟に乗ろうとする武将に組みついて首をはねようとすると、
我が子と同じような年齢の若武者で、首をはねるのをやめようとしたが、
源氏方の武将が来たためにやむなく首をはねた。
若武者が笛を持っていたので、戦いの前に戦場に流れた美しい笛の音の主が
この若武者であったことに気付いた。
首実験を行ったところ、笛の名手として名高い平敦盛であったことを
聞かされた直実は、戦の無常に疑問を感じ、出家して菩提を弔うことを
決心した。
といった内容です。
平家物語の中では、最も有名な場面の一つです。
謡曲 『 敦盛 』 は、蓮生が出家して旅に出た後のお話しです。
出家した直実 ( 蓮生 ) が一の谷に参り、敦盛の菩提を弔うと、地獄 ( 修羅 )
に落ちた敦盛が蓮生を殺そうと現れるが、蓮生が尚も菩提を弔ってくれる
ことによって恨みが消え、極楽へ行けること感謝する。
といった内容で、平家物語 『 敦盛最期 』 の続編になっています。
直実の戒名 ( 出家後の名前 ) の蓮生が堂名になっているお堂があるのには
驚きました。
参道をはさんで蓮生堂の反対側 ( 左側 ) に、「 源平の庭 」 があります。
平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現しています。
浜から敦盛を呼び止める直実、沖の舟に向かっていたが振り返る敦盛。
『 敦盛最期 』 から思い浮かぶ通りの場面。構図はなかなか良い。
しかし、この人物像...
敦盛公。 直実公。
ガッカリ...
「 源平の庭 」 に向かって右に宝物館があり、敦盛公御使用の笛などが
公開されており、必見です。
左:髙麗笛 1.5×37cm 比叡山学祐僧正の作。敦盛公遺愛の笛。
右:青葉の笛 2.5×37cm
弘法大師が唐へ留学されていた時、長安の青龍寺というお寺の竹で作られ、
帰国された後に嵯峨天皇に献上し、その後、皇室から平家の手に渡ったと
伝えられる、敦盛公遺愛の笛。
敦盛公が使用された矢筒と陣笠。
敦盛公の木像。熊谷蓮生 ( 直実公 ) の作。
息を飲みました。直実公が菩提を弔うために心を込めて作った像。
母呂衣名号 ( ほろぎぬみょうごう ) 熊谷直実公筆。
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母呂衣とは、矢や石などから防御するため、兜や鎧の背に巾広の衣布を
つけて風で膨らませるもので、武具の一つです。
敦盛の母呂衣に直実が菩提を祈り 「 南無阿弥陀仏 」 と書いたものです。
( 説明文 )
平家物語が史実に基づく物語であることを実感しました。
馬盥の額。
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昔、一の谷安徳帝内裏に、紅白咲き分けの躑躅あり、
紅枝俄に枯れ初む 是 平家滅亡の前兆なり
とて伐りて馬盥形の額として、当山に納む中に山号 「 上野山 」 と刻す。
( 説明文 )
敦盛釣燈籠。 建仁元年在銘 ( 鎌倉時代 )。
平清盛公が寄進された鼓。
運慶作の鬼面。
弁慶鐘。
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元、当国山田村安養寺の鐘なり。
一の谷合戦のとき武蔵坊弁慶これを長刀の先にかけ、前に提灯を吊るして
鵯越を担ぎまわりて陣鐘に代用せりと言ふ。
世俗に 釣合はざるを提灯といふ は、是より始まると言ふ。
星霜八百年、此鐘老朽してひび割れを生じたるを以て、昭和五十七年
宝物殿に納め、替わって新鐘を摸刻鋳造す。
( 説明文 )
その他に、在原行平公 ( 阿保 ( あぼ ) 親王の次男で業平公の兄 ) が
考案されたという一絃琴 ( いちげんきん ) の模型が置かれてありました。
ガラスに反射して写真が撮れませんでしたので、説明文だけ記述して
おきます。
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須磨琴 ( 一絃琴 )
長さ110㎝の桐材に、一本の絹糸を張った琴で、素朴で哀調ある音色が
特徴です。
在原行平が、須磨の渚に打ち寄せられた船板を拾い、冠の意図を張って
岸辺の葦に指をはめて、かき鳴らしたことがはじまりと伝えられています。
展示協力 大本山須磨寺
( 説明文 )
境内でお坊さんに、行平公についてお聞きしたところ、須磨寺に来られた
記録はないが、須磨の浦に庵があり、世話役の女性と一緒に住んで
いらしたということでした。
須磨までは、御輿で来られたらしいです。
御皇室を離れられたとはいえ、天皇のお孫さんですからね。
世話役の女性は、何から何までも世話をした、という意味です。
とおっしゃっておりました。
まあ、そうでしょう。あの業平公のお兄さんですから。
阿保親王は、琴を弾かれながら歌われることを得意とされていたようです
ので、その影響で行平公の一絃琴が生まれたのかもしれません。
阿保親王の陵はこの近くに在ると教えていただき、驚きました。
阿保親王の宮は大坂の松原市に鎮座される阿保神社の近くにあったと
伝えられていますし、51歳の若さで薨去されていますので、松原市に
在るものだと思っておりました。
普段は参拝した通りに写真を掲載しますが、須磨寺は広大ですので
本堂に向かって左奥にある敦盛公の首塚の参拝記録は茲に掲載して
おきます。
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謡曲 「 敦盛 」 と敦盛首塚
謡曲 「 敦盛 」 は、戦乱の巷では、敵であった者同士が極楽浄土で
共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。
一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は無常を感じ出家して
蓮生と改め、菩提の為古戦場を尋ねると、敦盛の霊は草刈男の姿で
現れて迎える。
蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、華やかな姿で現れた
敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日があった事や
戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生
の出来ることを喜びつつ消え去るのである。
直実は、義経の首実験の後、許しを得て遺品
「 馬・甲冑・弓矢・青葉の笛 」と共に、戦死の有様を書き添えて
父経盛に送った。
懇ろに弔われた 「 敦盛首塚 」 は、今も人は絶えない。
謡曲史跡保存会
( 境内説明文 )
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平敦盛卿首塚
敦盛卿の御首を埋葬す。
敦盛卿は首と胴とを別々に埋葬せしものにて胴塚は其の討死の
場所たる一の谷にあり。
( 境内説明文 )
青マーク 須磨寺 首塚
赤マーク 一の谷 胴塚 ( 須磨浦公園内 )
続く。