播磨国風土記の一番始めの賀古郡の章で、

 

 賀古郡 ( かこのこほり )、( 天皇が ) 四方を望んで

 「 この土地は、丘・原・野がとても広く、この丘は鹿児 のように見える 」

 とおっしゃったので賀古 ( かこ ) 郡と名付けられた。

 

と書かれています。

 

賀古郡 ( かこのこほり ) は現在の加古川市です。

どちらの天皇がおっしゃったのか、どの丘が鹿児のようだったのかは

書かれておりません。

 

しかし、その後に大帯日子命 ( 景行天皇 ) が印南別嬢 ( イナミノワキ

イラツメ ) に求婚されたお話しが 「 昔話 」 として紹介されております。

「 鹿児みたいだ 」 とおっしゃられた天皇が景行天皇以後であることは、

まず間違いないと思います。

 

また、「 鹿児のような丘 」の逸話の後に、日岡という地名の由来が書かれて

いることや、景行天皇の后である稲日大郎姫 ( いなびのおおいらつめ ) の

陵 ( 日岡陵 ) が日岡に在りますので、日岡である可能性があります。

 

 

古事記の景行天皇の章では、最初に

 

 大帯日子命は纏向 ( まきむく ) の日代宮 ( ひしろのみや ) に居らした。

 吉備臣 ( きびのおみ ) たちの祖先の若建吉備津日子 ( わかたけきびつ

 ひこ ) の娘の針間 ( はりま ) の伊那比大郎女 ( いなびのおおいらつめ )

 と結婚して生まれたのが櫛角別王 ( くしつのわけのみこ )、

 大碓王 ( おおうすのみこ )、小碓王 ( おうすのみこ )、

 

と書かれています、

古事記の伊那比大郎女 ( いなびのおおいらつめ ) と播磨国風土記の

印南別嬢 ( イナミノワキイラツメ ) は同一です。

 

景行天皇が磯城瑞籬宮 ( しきのみずかきのみや ) ( 桜井市 )

あたりから賀古郡 ( 加古川市 ) までお后を探しに出かけられた。

皇后は吉備一族の姫でした。

 

播磨国風土記には、

 印南別嬢 ( イナミノワキイラツメ ) をお探しになるとき、阿閇津 ( あへつ )

 に到って、ここで御食を供進したので、阿閇村 ( あへのむら ) と呼ばれる

 ようになった。

と書かれています。

 

阿閉 ( あへ、あえ ) は 「 饗 ( あへ、あえ ) る 」 が由来で、里人が、天皇に

お食事を饗た、おもてなしをした、ということで、阿閉 (あえ ) という地名になって

います。

 

青マーク 日岡神社。東隣りにある日岡公園に、播磨稲日大郎姫 

        ( はりまのいなびのおおいらつめ ) の日岡陵があります。

赤マーク 神社

 

 

鎮座地:兵庫県加古郡播磨町本荘4丁目11-21 

 

国道2号線に案内板があります。

 

 

 

 

右に手水舎。

 

 

 

 

 

 

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阿閉神社 御由緒略記

 

御祭神 住吉大神

       底筒之男命 ( そこつつのおのみこと )

       中筒之男命 ( なかつつのおのみこと )

       表筒之男命 ( うわつつのおのみこと )

       息長帯姫命 ( おきながたらしひめのみこと )

 

摂社 阿閉恵美須大神

       事代主命   ( ことしろぬしのみこと )

       三穂須須美命 ( みほすすみのみこと )

 

『 播磨風土記 』 に 「 阿閉の津 」 と記され、昔から港●し発達し、

舟人の往来の盛んな所で、『 住吉大社神代記 』 ( 太平三年 ) に

阿閉社とあることから、ここに海上守護神としての摂津の住吉大社から

「 子神 」 として御分霊を奉斎したのが当社である。

 

後に、源季房朝臣 ( 赤松氏の祖 ) が播磨国の守護として、加古郡

大内村に移住された時、この阿閉庄の住吉大明神を信仰され、国家安全

を祈願された。

 

のち、赤穂郡に白旗城を築き居城とされたが、赤松氏の祈願所として深く

崇敬を受け、ために、社殿は赤松氏の居城に向かって西向きに建立されて

いるという。 現在の本殿四柱は、元禄時代の建立である。

 

昭和六十一年五月吉日 阿閉神社

                                                       ( 境内説明文 )

 

本殿は春日造、唐破風、檜皮葺です。 美しいですね。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。 御社名不明。

 

 

 

拝殿に向かって左前に、境内社の阿閉恵美須大神が鎮座されます。

 

 

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阿閉恵美須大神 由緒

 

当神社は、事代主命、三穂須須美命を奉斎し、蛭子命を合祀して

います。

昔から開運が展け、漁業、農業の盛んな土地で、里人は産業隆昌の

守護神として各地に蛭子神社をお祭りしていました。

 

近年、当地は臨海工業地帯として目覚ましい発展を遂げており、

更に氏子地域諸々の産業、氏子住民の福徳円満家運隆昌を祈念し、

ここに出雲国美保神社より御分霊を戴き、昭和四十年阿閉神社の

玉垣内に新社殿を建立し奉斎致しました。

 

合祀神社 本荘 東所  蛭子神社

     本荘 宮ノ東 蛭子神社

     本荘 西浜  蛭子神社

                       ( 境内説明文 )

 

『 出雲風土記 』 に所造天下大神 ( あめのしたつくらししおおかみ ) と

奴奈宜波比売命 ( ぬかわひめのみこと ) が結ばれて生まれた子神が

御穂須須美命で、御穂須須美命が鎮座されたことから美保郷の名がついた

と書かれています。

 

所造天下大神は大国主神、奴奈宜波比売命は沼河姫神と考えられ、

御穂須須美命は建御名方神 ( たけみなかたのかみ、諏訪大神 ) と

されます。

 

美保に鎮座される美保神社の御祭神は、三穂津姫命・事代主命ですが、

境外末社の地主社⑤の御祭神が 「 事代主命、或は御穂須須美命 」

と、境内説明文に書かれておりました。

 

 

阿閉恵美須大神の境内説明文を正しく書けば 

「 出雲国美保神社の境外末社、地主社より御分霊を戴き 」

ということなのでしょう。

 

大国主命の妃神の三穂津姫命が鎮座される。

国譲りの決断をされるとき、事代主命が占いと神事をされた。

建御名方神が地主神として鎮座される。

静岡の三保の松原に鎮座される御穂神社の御祭神は三穂津彦命

( みほつひこのみこと、大国主命の別名 )。

 

美保というのは、出雲国にとって非常に重要な土地だったのですね。

記紀には書かれておりませんが、建御雷神 ( たけいかずちのかみ )

と対峙された建御名方神は、美保から来られたということなのでしょうね。

 

境内からの眺め。

 

 

以上。