中筋 ( なかすじ ) 八幡神社は、阪急宝塚線:中山観音駅から東へ

700m、交差点に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:宝塚市中筋2丁目6-3

 

 

 

    

 

 

左に手水舎。

 

 

 

 

    

 

 

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八幡神社

 

御祭神 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと、応神天皇 )

 

由緒   社伝に宇佐宮の御分霊を祀るとある。

     創立年月不詳。

     明治六年 ( 1873 ) 村社に加列。

     昭和五十五年十二月十八日、本殿及び棟札二枚が国の重要文化財に

     指定。

 

境内神社 厄神社 麛坂皇子 ( かごさかおうじ )

         忍熊皇子 ( おしくまおうじ )

     九頭龍神社 木花咲屋比売神 ( このはなさくやひめのかみ )

 

                          ( 境内説明文 )

 

麛坂 ( かごさか ) 皇子 と 忍熊 ( おしくま ) 皇子 を祀る神社には、

初めて出会いました。

 

麛坂皇子と忍熊皇子 は、応神天皇の異母兄です。

第十四代仲哀天皇と、妃の大中姫 ( おおなかつひめ、第十三代景行天皇

の皇子である彦人大兄命の娘。景行天皇の孫 )との間に生まれた皇子。

 

一方、神功皇后は第九代開化天皇の玄孫・息長宿禰王 ( おくながの

すくねのみこ ) の娘 ( 開化天皇の5代孫 )。

 

仲哀天皇が大中姫を妃に迎えた時期は不明です。

その後に即位され、翌年の一月に気長足姫 ( おきながたらしひめ ) 尊を

娶り皇后とされます。

その年の二月に敦賀に仮宮をお建てになり筍飯 ( けひ ) 宮とされ、

九月に長門の豊浦宮に移られます。

 

仲哀天皇九年二月、新羅討伐に乗り気でなかった天皇が筑紫で崩御され、

その年の十月に神功皇后は新羅討伐に行かれます。

この間、大中姫は大和の何処かの宮におられたのだろうと思います。

 

『 日本書紀 』 には、

 

 新羅討伐を終えて十二月十四日、筑紫で誉田別尊 ( 応神天皇 )を

 お産みになり、穴門の豊浦へ移られた。

 仲哀天皇の喪 ( もがり、御遺体 ) を収めて、海路より京へ向かった。

 麛坂皇子と忍熊皇子は、異母弟の誉田別尊が次の天皇に即位することを

 恐れ、豊浦から都へ向かわれる神宮皇后の軍を討とうとした。

 麛坂皇子は赤い猪に喰い殺され、忍熊皇子は神功皇后の軍に討たれた。

 

と書かれてあります。

 

神功皇后が向かわれた 「 京 」 は、大和国のどこかです。

なぜ京へ向かったのか、理由は書かれておりません。

 

仲哀天皇が即位されてから麛坂皇子と忍熊皇子が薨去されるまでの間、

昔から話題になっていることがあります。

 

 大中姫が正妻(皇后)で、神功皇后が妾妻(妃)だったのではないか?

 仲哀天皇は神功皇后・武内宿祢に殺されたのではないか?

 応神天皇は、神功皇后と武内宿祢の御子息ではないのか?

 神功皇后が京へ向かったのは、クーデターではないのか? 等。

 

この辺りについて書かれている本やブログはたくさんありますので、

興味がある方は探してみてください。

 

本殿は覆屋で見えません。

 

 

 

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国指定重要文化財 八幡神社本殿 

             指定年月日 昭和五十五年一二月十八日

 

一間社隅木入春日造  ( いけんしゃすみきいりかすがつくり )

正面軒唐破風付檜皮葺 ( しょうめんのきからはふひのわだぶき )

 

本殿はやや小ぶりな一間社春日造で、特有の意匠や工芸も随所に見られ、

細部の手法も優れている。

 

寛政四年 ( 1665 ) に修理が行われたが、ほとんどの部分は当初の姿を

保っており、室町時代後期 ( 16世紀中頃 ) の摂津地域の神社建築を

代表する建造物の一つである。

 

創立の由来は不明であるが、江戸時代中期に並河誠所の著した

『 摂津志 』によると、康永四年 ( 1345 ) に平義重が修理したと

記されているので、それ以前から付近の鎮守社として信仰をあつめて

いたものと思われる。

     

                         ( 境内説明文 )

 

拝殿に向かって左に鎮座される九頭龍神社。

 

 

九頭龍神社の社殿の前には日露戦争の砲弾が祀られています。

 

 

拝殿に向かって右に鎮座される厄神社。

なんで 「 厄神社 」 なのでしょうね?

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。