新美南吉記念館の建物は一見すると半地下です。
実際の展覧室は近にあります。
外観は、大東亜戦争時の掩体 ( えんたい、戦闘機格納庫 ) みたいで、
再利用しているのかと思いました。
床の肉球に沿って進みます。
カフェの前には 「 ごん吉 」 が居ます。
記念品のバッチを作るコーナーもあります。
地下の展覧室へ。
南吉が読書しています。
ほとんどの展示物は撮影可能ですので、たくさん撮影しましたが、ここではあまり
紹介しないようにします。
新美南吉記念館 HP に掲載されているプロフィールと生涯 ( 抜粋 )
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プロフィール 新美南吉 ( にいみなんきち )
1913年(大正2)7月30日~1943年(昭和18)3月22日
愛知県知多郡半田町 ( 現在の半田市 ) 出身
児童文学者
東京外国語学校英語部文科卒業
本名:新美正八 ( にいみしょうはち )
代表作: 「 ごんぎつね 」 「 手袋を買いに 」 「 おじいさんのランプ 」
「 牛をつないだ椿の木 」 「 花のき村と盗人たち 」
「 久助君の話 」 「 でんでんむしのかなしみ 」 他
生涯について
新美南吉は大正2年7月、愛知県知多郡半田町 ( 現在の半田市 ) に生まれ
ました。
幼くして母を亡くし、養子に出されるなど寂しい子ども時代を送り、長じてからは
健康に恵まれず、初めての童話集を出した翌年に29歳でこの世を去りました。
しかし、その一方で文学の師である北原白秋、先輩詩人の巽聖歌・与田凖一、
恩師の遠藤慎一・佐治克己、愛した女性の木本咸子・山田梅子・中山ちゑ、
そして小学校や女学校での教え子達など数多くの出会いに恵まれもしました。
南吉がその短い生涯に数多くの名作を書き残すことができた背景には、
こうした人々の支えがあったのです。
年 年齢 できごと
大正2年 7月30日、愛知県知多郡半田町岩滑 ( やなべ ) で
畳屋を営む父渡辺多蔵と母りゑの次男として生まれる。
昭和2年 14歳 この頃から盛んに童謡や童話を作る。
昭和6年 18歳 3月、半田中学校卒業。
4月から8月まで母校の半田第二尋常小学校に
代用教員として勤務。
この頃から木本咸子(みなこ)との交際が始まる。
10月、「権狐」執筆。
昭和7年 19歳 4月、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科に入学。
『 赤い鳥 』 に 「 ごん狐 」、「 のら犬 」 が載る。
昭和8年 20歳 12月、「 手袋を買いに 」 創作。
昭和10年 22歳 でんでんむしのかなしみ 」 創作。
この年、木本咸子と別れる。
昭和11年 23歳 3月、東京外国語学校卒業。
10月、2度目の喀血。11月、帰郷。
昭和12年 24歳 4月、河和第一尋常高等小学校(現・河和小学校)の
代用教員となる。
9月、飼料会社の杉治商会に就職。
昭和13年 25歳 4月、安城高等女学校 ( 現・安城高校 ) の教諭。
昭和14年 26歳 1月、中山ちゑとの結婚を考える。
7月、生徒らと富士登山。
8月、伊豆大島、東京へ旅行。
昭和15年 27歳 6月、中山ちゑ死去。
昭和17年 29歳 1月、腎臓を患い通院。
昭和18年 病状悪化。未発表作品を巽聖歌に送り、出版を依頼。
3月22日、喉頭結核のため永眠。29歳7ヶ月。
http://www.nankichi.gr.jp/Nankichi/syogai.html
教え子の佐薙好子 ( さなぎよしこ ) に宛てた葉書。
昭和18年2月9日
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そんなに遠くまで心配をかけて申し訳ありません。
のどがわるいので一切のお見舞いをおことはりして、ふせっています。
たとひ僕の肉体がほろびても 君達少数の人が ( いくら少数にしろ )
僕の事をながく憶えていて、美しいものを愛する心を育てて
行ってくれるなら僕は君達のその心にいつまでも生きているのです。
疲れるといけないからこれで失礼。
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死を覚悟して送った手紙 ( 南吉から巽聖歌 ( たつみせいか ) へ )
昭和18年2月12日
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先日は大和書店のいたづらで、いのちをつぶしました。
田舎者の馬鹿正直で、ほんたうかと思ったのでした。
だが、いたづらでよかったと思ひます。
書留で、新しいのも古いのも、童話でないのも、ともかくいま
手許にある未発表のものを全部送りました。
いいのだけ拾って一冊できさうでしたら作って下さい。
草稿のままで失礼とは思ひますが、もう浄書をする体力がありません。
今度の病気は喉頭結核といふ面白くないやつで、しかも、もう相当
進行してます。
朝晩二度の粥をすするのが、すでに苦痛なのです。
生前 ( といふのはまだちょっとはやすぎますが ) には
実にいろいろな恩を受けまし
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死を覚悟した南吉が、巽聖歌に宛てた手紙。
未発表の原稿をすべて書留で送ったので、自分が死んだ後、
本にしてほしいと頼んでいる。
冒頭に 「 大和書店のいたづらで 」 とあるのは、聖歌の世話で
大和書店から出版話が進んでいたが、打ち合わせをしようとしても
上京してこない南吉に業を煮やした同社が 「 たつみ・じこでしんだ 」
と電報を打ったことを指す。
既に病状が悪化していた南吉は、上京する体力がなかった。
( 館内の説明文 )
教え子の高正惇子 ( たかまさじゅんこ ) に宛てた葉書。
昭和18年2月26日消印
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いしやはもうだけだといひましたがもういっぺんよくなりたいと思ひます
ありがと
ありがと
今日はうめがさいた
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新美南吉が夭折されたのは知っていたけれど、
こんなに悲しい展示がされているとは、思いもしなかった。
南吉に恋人が居たことは知りませんでした。
「 中山様の子孫 」 ということですから、幼馴染ということ
なのでしょう。
2年前に先立っていたとは。
せめて、あちら側で一緒になれていたら良いですね。
館内では、「 ごんぎつね 」の人形劇 ( 28分 ) の放映が、
30分に1回の割合で放映されていますので、観ました。
もう、50年以上昔に読んだ童話でしたが、感動しました。
youtubeには人形劇や読み聞かせのビデオがアップされていますので、
覗いてみてください。
youtube ごんぎつね ( 人形劇 )
https://www.youtube.com/watch?v=ptZ6TCxcR80
youtube ごんぎつね ( 読み聞かせ )
https://www.youtube.com/watch?v=86sZFckb7N8
ビデオを見ている間に、近くの小学生が郊外活動で、大勢記念館に来ました。
記念館の受付の人によれば、郊外学習で多くの小学校が来館するそうです。
小学校四年製の国語の教科書には、ごんぎつねが全編掲載されているのだ
そうです。
私も小学3年生か4年生のとき、図書館にあった 「 新美南吉全集 」 を
全て読みました。それ以来、新美南吉という名前は強烈に記憶しています。
南吉記念館から眺める、権現山 ( 左 )。
半田口駅まで歩きます。
コンビニに停まっていた半田市巡回路線バス 「 ごん吉くんバス 」。
郵便局の前にあった、「 ごんぎつね 」 の1シーンの看板。
南吉が代用教員として働いていた岩滑 ( やなべ ) 小学校。
魚料理屋さんの看板は「 南吉うなぎ 」 。
商売を頑張りたい気持ちはわからないでもないが、「 ごんぎつね 」 を読んだあとに、
「 うなぎ 」を食べたいと思う人は、あまり居ないだろうな。
半田口駅。
以上。