名古屋市の防火水槽のマンホールには、水を吹きつけるシャチホコが
描かれています。
全国で、昔ながらの街並みが保存されている地区はたくさんあります。
奈良県でも、橿原今井町、宇陀松山、五條新町などが知られています。
名鉄名古屋本線:有松駅の南側にも、とても整備された旧東海道の
街並みが保存されています。
左上 「情報専門学校」 の 「情」 から 右下 「大将ケ根」 の 「根」 まで。
約1㎞ほど。
名古屋市HPの記事を転載します。
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まちの成り立ち
有松は、慶長13年 ( 1608 )、東海道の鳴海宿と池鯉鮒 ( ちりゅう ) 宿の
間に尾張藩によって開かれました。
東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め ( 有松絞り ) が考案され、
以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。
天明4年 ( 1784 ) の大火により村のほとんどが焼失しましたが、尾張藩の
援助もあり、20年程でほぼ復興したと伝えられます。
明治維新以降、東海道の往来者が大きく減ったことなどから、有松絞りは
著しく衰退しました。
しかしその後、新たな意匠や製法の開発、卸売販売への業態転換などに
よって再興し、明治後期から昭和初期にかけて最も繁栄しました。
東海道沿いには、今なお豪壮な絞商の主屋をはじめとする数多くの
伝統的な建物がのこり、有松絞りによって繁栄した往時の様子を今に
伝えています。
町並み・建物の特徴
ゆるやかに曲がった東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ
絞商の主屋や門・塀が数多く見られ、比較的ゆったりとした町並みが継承
されています。
また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられますが、
東海道に面する主屋は木造2階建、切妻屋根、桟瓦葺、平入を基本
としており、統一感のある町並みとなっています。
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000080042.html
「 有松絞り 」 で有名な有松。 玄関には、有松絞りの暖簾が掲げられています。
有松の詳細は、以下のHPで観ることができます。
日本遺産 有松 HP
https://shibori-kaikan.com/arimatsu-isan/
名古屋市HP 有松伝統的建造物群保存地区及び有松町並み保存地区
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000080042.html
広重の五十三次にも有松は描かれています。
五十三次 鳴海 名物有松絞
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story072/
観光案内所?の事務所に天狗が飾られていました。
有松天満宮の例大祭で登場するらしい。
猿田彦命ですよね?と尋ねますと、
猿田彦命ではなく、天狗です。
随分昔に、町おこし的に神事に天狗を登場させたようです。
有松天満宮の由緒や縁起と天狗は関係ありません。
といった説明を戴きました。
有松神社へ向かって南下します。
有松公園では、有松絞りが紹介されていました。
唐松縫い絞り。
やたら三浦絞り。
絞りの名前は不明。
ひしやき縫い絞り。
巻き上げ絞り。
有松は、昔風の建物で徹底しています。
派出所。
ローソン。
眼科のお医者さん。
有松小学校。
有松中学校。
有松神社は、有松中学校の南側の高根山の頂上に鎮座されます。
青マーク 派出所
赤マーク 有松神社
鎮座地:名古屋市緑区有松町大字桶狭間高根39-242
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桶狭間の戦い ( 1560年 ) のとき、今川郡本陣 ( おけはざま山 ) の
前衛として、幕山から高根山一帯に、松井宗信隊 ( 約1500名 ) が
着任し、鳴海城方面の織田軍の監視と本陣の防衛にあたりました。
当時、高根山はこの辺りで一番高く ( 標高約55m )、鳴海城と
周囲の織田軍の善光寺砦、中島砦、丹下砦を一望できました。
善照寺砦に織田信長が到着したことを知り、中島砦から佐々政次、
千秋季忠の陽動隊 ( 300名 ) が高根山に向け攻撃を仕掛けました。
松井宗信隊は、両武将他50名程を討ち取り撃退しました。
寄贈 愛知ウォーキング城巡りクラブ
( 境内説明文 )
下図は、桶狭間古戦場保存会が発行している 「桶狭間の戦広域マップ」 です。
広
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小瀬甫庵の 『 信長紀 』 以来、
善照寺砦を出た織田信長は、北から迂回して桶狭間にいた今川義元を
奇襲した。
という説が一般的であった。
現在、事実に誓いと考えられている 『 信長公記 』 の記述によると、
織田信長は善照寺砦から中島砦を経て桶狭間へ向かったことが分る。
その後の進軍ルートは推測の域を出ないが、織田信長は 「 迂回 」
ではなく 「 直進 」 に近い進路を取ったという説が有力になりつつある。
この 「 桶狭間の戦い広域マップ 」 には、織田信長の進軍ルート2種類
示した。
どちらも今川義元の休息したという 「 おかはざま山 」 を目指している。
また、今川義元の進軍ルートについても、記録に残っていないが、
推定ルートを2種類示した。
( 桶狭間の戦い 広域マップ 説明文 )
山ぶき色の 「 大高道 」 は、松平元康 ( 徳川家康 ) が 「 大高城 」 に
食料を運んだ時に使った道で、松平元康は食料を運び込んだあと、
大高城で守備につき、義元公が討ち取られたことを聞いて、岡崎城へ
引き下がっています。
社殿に向かって右に、忠魂碑 (左) と征清記念碑 (右) が建立されています。
社殿からの眺め。
以上。