氷室神社は、名阪国道 ( 無料区間 ) の福住ICから北へ500mの
所に鎮座されます。
鎮座地:奈良県天理市福住町1841
福住ICを降りて国道25号線を走っていくと、氷室神社の案内板が
あります。
小道に入って100mほどのところに、アジサイが咲いていました。
カーブミラーのてっぺんは3.5mくらいありますので、一番高い所に
咲いているアジサイは、5m近くあります。
3m近くあるアジサイは見た事がありますが、こんなに伸びるとは
知りませんでした。
アジサイの対面に氷室神社の鳥居があります。
鳥居をくぐった正面に手水舎。
手水舎の前を90度右に折れます。
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氷室神社
天理市の東部山中、浄土集落に鎮座する国史見在社で、旧郷社。
闘鶏稲置大山主命 ( つげのいなぎおおやまぬしのみこと )
大鷦鷯命 ( おおささぎのみこと )
額田大中彦命 ( ぬかたのおおなかつひこのみこと )
を祀る。
創祀は明らかではないが、『 元要記 』 には允恭天皇の三年正月
三田宿祢が詔によって氷室の霊を祀ったという。
『 日本書紀 』 の仁徳天皇六十二年の条に、額田大中彦皇子が
闘鶏で狩された時、野中に盧叢様のものを発見された時、闘鶏稲置
大山命は氷室と称し、丈余掘った土中に茅萩を式敷き、氷をその上に
置き、草をおおっておくと夏季もとけることなく、炎暑のころ酒に浸して
飲用すると答えたので、皇子はその郡を持ち帰って天皇に献上された
ところ、天皇喜ばれ、
「 是より以後、季冬に当たる毎に、必ず氷を蔵む。
春分に至りて、始めて氷を散る。」
とある。
この氷室の守護神として祀ったのが当社で、『 延喜式 』 主水司に
氷池風神九所のうち大和国一所にあたり、毎年十一月氷池神祭が
行われたとある。
中世に、当社は福住七郷の鎮守として、領主福住氏が神主となって
奉祀した。
福住氏は、宗職の代に最盛期を迎えて福住の東北隅に氷室城を
構えたが、当社所蔵の春日板版嘉禄本大般若経奥書に
大和国山辺郡福住庄氷室宮御宝前御経也 宗職 ( 花押 )
時天文八年 ( 1539年 ) 己亥八月五日
とある。
宗職は筒井順慶の家老となったが後、永禄二年 ( 1559 )
嫡子宗永に神主を譲渡し、同年六月十七日に奉告祭祝詞を
当社に納めて隠居した。 ( 吉田家文書 )
その後筒井一族の滅亡とともに福住氏も衰退。
神社の祭祀権も郷民の手に移った。
例祭は十月十五日で、当日は氷室旧跡のお旅所で古式による
神輿の渡御が行われ、氷室信仰の講社も参詣してにぎわう。
神社に天正十二年 ( 1584年 ) 根生田 ( 入田 ) 村神事帳箱、
慶長八年 ( 1603年 ) 鰐口があり、かつては境内に別当神宮寺
があった。
なお、当社後方の室山は昔、朝廷への献氷をとった茅萩池の跡や
氷を貯蔵した氷室跡と伝える所六か所が現存している。
( 奈良県史 5 神社 )
大鷦鷯命は仁徳天皇。
額田大中彦命は仁徳天皇の異母兄君。
闘鶏稲置大山主命は、闘鶏 ( つげ ) 国 ( 都祁 ( つげ ) 国、
大和国北東部、今の天理市東部地域、氷室神社近辺 ) の国造。
日本書紀の仁徳天皇六十二年の内容は、おおまかに奈良県史の
記事の通りです。
氷が仁徳天皇に献上されたときの主な登場人物が、御祭神です。
仁徳天皇よりも先に、国造がお酒 ( 当時はどぶろく ) のロックを
楽しんでおり、仁徳天皇に奉納されてお気に入りとなり、
その後は毎春氷が献上された、というお話は愉快です。
第16代仁徳天皇62年は西暦374年。
第19代允恭天皇3年は西暦414年。
仁徳天皇がロックを楽しまれて約40年後に、氷室のあった地に
氷室神社が創建されています。
氷室神社は全国にあり、一番初めに創建されたのがこちらの
氷室神社。
東大寺の西側に鎮座されている氷室神社は、元明天皇の御宇に
創建されています。
奈良市春日野町 氷室神社
https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12775179660.html
拝殿に掲げられた、神事の絵馬。
社務所に、この近辺で見つかった氷室跡の地図が有りました。
わかりずらかったので、Yahioo地図に書き込んでみました。
位置はおおまかですが、これら3つの地域に20ヶ所の氷室跡が
見つかっています。
「 天城越え 」 ( 松本清張原作 ) で、土工を殺した少年が泊まった
場所が氷室です。
時代が明治でしたので、ドラマも映画も山小屋みたいな氷室でした。
仁徳天皇・允恭天皇の御宇の氷室 ( 想像図 ) はこんな感じです。
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
左から、三柱神社、白山比売命・春日大神。
本殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
左から、厳島神社・事比羅神社、金比羅神社。
拝殿からの眺め。
以上。